「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。」 イザヤ書2章2,3節

 1章に「シオンの審判」についての預言が語られていましたが、冒頭の言葉(2,3節)でエルサレムについてのもう一つの預言が語られています。「終わりの日に」とは、この世の終わりの日のことを指しています。つまり、イザヤの預言の射程が、今のこの時代を超えて、世の終わりの日、はるか未来に及んでいるということです。

 「主の神殿の山」とはエルサレムのことです。主の神殿は、ダビデの子、ソロモン王によってエルサレムに築かれ(列王記上5章以下:第一神殿)、バビロン捕囚後、破壊された神殿をダビデの子孫のゼルバベルが再建しました(エズラ記3章以下:第二神殿)。現在、エルサレムにあるのは、イスラム教の神殿ですが、その礎石は、主イエスの時代、ヘロデ大王が建てたもの(第三神殿)です。

 エルサレムは、ダビデの町といわれたシオンの丘にあります。シオンの丘は「どの峰よりも高くそびえる」という山ではありません。毛でロンの谷を挟んで東方のオリーブ山をはじめ、エルサレムを取り巻く山々の方が高いのです。その山々とシオンの丘との間に谷(ヒンノム、チュロペオンなど)があることから、それらの自然の要害(シオン)によって、エルサレム町は守られています。

 シナイ山やヘルモン山などの高い山は、天と地の接点と考えられていました。ですから、「どの峰よりも高くそびえる」というのは、地理的な表現ではなく、信仰的、霊的な表現で、エルサレムこそ主なる神を礼拝するにふさわしい都、世界の中心であるという言葉なのです。

 かつて、モーセはエジプトを脱出したイスラエルの民を率いてシナイ半島を南下し、ホレブの山(シナイ山)で神と顔を合わせ、十戒を授かりました(出エジプト記19,20章、申命記5章)。それと同じように、すべての民は、主なる神と見え、主の教えと御言葉を授けられるために、神の都エルサレム、主の神殿の山を目指して進んで来るのです。

 それは、終りの日には神の裁きが行われ、「シオンは裁きを通して贖われ、悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。背く者と罪人は共に打ち砕かれ、主を捨てる者は断たれる」(1章27,28節)からです。

 即ち、神の裁きに耐え得る生き方が、主によって示されるからです。多くの民が、「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」(3節)と言うのは、そのためです。

 「主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」(3節)と言われます。マソラ本文に忠実に訳せば、「教え(トーラー)はシオンから出る。そして、主(ヤハウェ)の御言葉(ダーバール)はエルサレムから」という言葉です。

 ご覧になってお分かりのように、シオンがエルサレムと同じものであるように、「教え(トーラー)」は、モーセ五書の律法を指しているのではなく、預言者の口を通して告げられる「主の御言葉」と同じ意味で用いられています。

 ヘブライ書1章1,2節に、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の創造者と定め、、また、御子によって世界を創造されました」と記されています。

 ヨハネ福音書1章1,2節に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった」とあり、「言(ロゴス=ことば)」として、神の独り子なる主イエスを紹介します(同14,17,18節)。

 また、主イエスは、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ」(同5章39節)と言われました。聖書に証しされた神の御子イエス・キリストは、エルサレムにおいて、十字架に贖いの死を遂げられ、それによって救いの道を開かれました。

 「高くそびえる」という言葉から、「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」(マタイ福音書5章14節)と語られた主イエスの言葉を思い出しました。どの峰よりも高いということは、誰からも見られるということです。それは、全世界に向かって世の光となるためです。

 主イエスは続けて「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようにしなさい」(同16節)と言われました。ここに語られる「立派な行い」とは、私たちが天の父の光を反射することであり、私たちの主イエス・キリストこそ、まことの世の光であることを証しすることです(ヨハネ福音書8章12節)。

 そしてそれは、私たちが日毎に主の御前に進み、謙ってその御言葉に耳を傾け、祈りつつ御言葉に従う生き方を通してなされるものです。

 主よ、主イエスの御顔に輝く神の栄光を悟る光を、私たちの内にお与えさり、感謝します。私たちを聖霊で満たし、主こそ神であり、神は愛であられることを、力強く証しすることが出来ますように。キリストの言葉を豊かに宿らせ、心から御名を褒め称えさせてください。御名が崇められますように。 アーメン