「あなたの恋人はどこに行ってしまったの。だれにもまして美しいおとめよ。あなたの恋人はどこに行ってしまったの。一緒に探してあげましょう。」 雅歌6章1節

 折角恋しい若者が訪ねて来てくれたのに、着替えたり化粧をしたりしていて、すぐに部屋に招き入れなかったために、若者はどこかへ去ってしまいました(5章6節)。それで、「エルサレムのおとめたちよ、誓ってください。もしわたしの恋しい人を見かけたら、わたしが恋の病にかかっていることをその人に伝えると」と、伝言を頼んでいました(同8節)。

 冒頭の言葉(1節)では、それを受けるかたちで、エルサレムのおとめたちが、「あなたの恋人はどこに行ってしまったの」と問います。「一緒に探してあげましょう」とはありますが、真心から親切にそう語っているのでしょうか。それとも、「恋しい人の居場所も分からないの」という、からかい半分、意地悪半分といった調子なのでしょうか。

 その質問に対しておとめは2節で、「わたしの恋しい人は園に、香り草の花床に下りて行きました」と言い、3節に、「恋しいあの人はわたしのもの」と語っているところを見ると、私は若者の行き先を知っている、探してもらわなくてもいい、あの人はわたしのものなのと、少々ムキになって語っているようにも思われます。

 そうであれば、おとめはエルサレムのおとめたちの問いかけを、親切心からのものではないと判断したということになるでしょう。おとめは2章16節の「恋しいあの人はわたしのもの、わたしは恋しいあの人のもの」という発言を、3節で繰り返します。だから、わたしから若者を奪わないでというかのようです。 

 一方、若者はおとめのことを思ってたたえます。「ティルツァ」(4節)は、「美しい、快適」といった意味ですが、イスラエルが南北に分裂した後(列王記上12章1節以下)、北イスラエルの首都ともなった町の名です(同14章17節、15章21,33節など)。美しさを代名詞とした町のように、おとめが美しいというのです。

 一方、「エルサレム」はダビデ以来、南ユダ王国でも首都です。日本でいう、京都の美しさ、東京の麗しさということになるでしょうか。「旗を掲げた軍勢のように恐ろしい」というのは、恐ろしいほどの美しさ、気高さといった最高の賛辞でしょう。

 8節に、「王妃が六十人、側女が八十人、若い娘の数は知れないが」とあります。ソロモンの「妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室」(列王記上11章3節)には及びませんが、いずれにしても、その数は尋常ではありません。およそ相手を理解し、一人一人を心から愛することなど出来ないでしょう。

 これは、江戸時代の将軍の大奥のような、世継ぎを生み出すシステム、あるいはまた、后を迎えた国との平和維持装置でしかあり得ません。

 それに対し、「わたしの鳩、清らかなおとめはひとり。その母のただひとりの娘、産みの親のかけがえのない娘」(9節)と語っているのは、真の愛と信頼、尊敬の関係で結ばれるのは、一対一の関係であることを示しているのではないでしょうか。

 創世記2章24節の、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」という言葉も、一夫一婦制を支持していると思います。私たちは、神によって合わせていただいた伴侶を、心から愛し敬い、慰め助け、生涯、その関係を大切にしていかなければなりません。

 ところで、若者とおとめは、神とイスラエル、キリストと教会、もしくはクリスチャンという関係を表していると、学び続けています。1節の、「あなたの恋人はどこに行ってしまったの」という言葉から、「あなたの主イエス・キリストは今どこにおられますか、何をしておられますか」という私たちへの問いかけを聞きます。あなたはこの問いをどう聞かれますか。この問いにどう答えられますか。

 それは、時には詩編42編4,11節の詩人のように、「お前の神はどこにいる、いるなら見せてみろ」といった嘲りの言葉として聞かれるかも知れません。その時の詩人は、しかし、神がどこにおられるのか、答えを持ち合わせていませんでした。「いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるか」(同3節)と訴え、「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり」(同4節)と呟いています。

 そうした中から、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか」(同6,12節)と自らを叱咤し、 「神を待ち望め。わたしはなお告白しよう、『御顔こそ、わたしの救い』と」(同6,12節)と信仰を言い表します。

 私たちは、「主イエスは今、私の内に、私と共におられる。御言葉をもって私を支え導いておられる」と答えましょう。そう感じるからではなく、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節)、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ書2章20節)という御言葉を信じるからです。

 神が喜ばれるのは、私たちの感覚などではなく、信仰です(ヘブライ書11章4節)。いつも共にいてくださる主に心を向け、絶えず御言葉に信頼して歩みましょう。主は私たちを愛して、平安と喜びを授けてくださいます。

 若者がおとめの美しさをたたえているように、主なる神はイスラエルを「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」(イザヤ書43章3節)ていると語っておられます。主イエスは、私たちのために命を捨てると言われるほどに、愛を示してくださいました。その愛に応えるべく、私たちも主を慕い求めて参りましょう。

 主よ、私たちが聞くのに早く、離すのに遅く、また怒るに遅くあるようにしてください。御言葉を聞くだけで終わる者ではなく、聴いて行う人にならせてください。舌を制して悪を言わず、唇を閉じて偽りを語らず、悪から遠ざかり善を行い、平和を願って、これを追い求めさせてください。 アーメン