「ほとりには、見事な実を結ぶざくろの森、ナルドやコフェルの花房。」 雅歌4章13節

 4章は、1~7節で、若者がおとめの美しさを歌い上げます。1節に、「(見よ)あなたは美しい」と言い、7節でも、「あなたは何もかも美しい」と歌って、「美しい」(ヤーファー)という言葉で、この箇所を囲んでいる形です。

 美しいと讃えているのは、目、髪(1節)、歯(2節)、唇、こめかみ(3節)、首(4節)、乳房(5節)と、合計7つのものです。7は完全数ですから、7つだけが美しいということではなく、「何もかも美しい」という表現でしょう。

 7節後半に、「傷はひとつもない」とあります。ここで、「傷」(ムーム)は、身体的な欠点や傷(blemish、defect)という意味ですが、道徳的な欠点を指すこともあり、その人柄にも問題がないという表現と考えることも出来ます。外見に加えて、心も清く美しいとなれば、これは、「恋人」なるおとめのことを、まるで完全無欠の女性と讃えているということになります。

 現実には、完全無欠の人間がいるとは考えられません。けれども、若者の目には、自分が恋しているおとめのことが、容姿の美しさのみならず、心も清く、全く非の打ちどころがないように映っているのです。

 8~11節には、「花嫁よ」、「妹よ」という呼びかけが各節ごとになされています。その花嫁をレバノンから呼び出す言葉が、8節にあります。

 そして、「アマナの頂から」と言いますが、アマナという山は知られていません。列王記下5章12節に、「ダマスコの川アバナ」とあり、この川の源流の山のことを指しているのではないかと思われます。「セニル、ヘルモン」は、どちらもヘルモン山の名前です(申命記3章9節)。

 ということで、おとめは何故か、イスラエル北方のレバノンの高山にいることになります。レバノンの高山は女神アシェラ(イシュタル、アシタロテ)の玉座であり、獅子と豹はその使者でした。その意味で、そこから花嫁を呼び出すということは、偽りの礼拝を捨てて悔い改めて主なる神のもとに来るようにという招きの言葉が語られていることになります。

 ただ、雅歌においてレバノンへの言及がなされるとき、そこに否定的な意味合いのある表現を見出すことが出来ません。むしろ、「レバノン杉」(1章17節、3章9節、5章15節、8章9節)、「レバノンの香り」(4章11節)、「レバノンの山」(4章15節、5章15節)、「レバノンの塔」(7章5節)と、肯定的に語られています。

 そうすると、「偽りの礼拝を捨てて悔い改めて」という内容をここに見る必要はなくなり、むしろ、肯定的に語られるレバノンから、美しい花嫁を呼び出しているということになります。 

 12節に、「わたしの妹、花嫁は、閉ざされた園。閉ざされた園、封じられた泉」という言葉があります。1章6節の「自分の畑は見張りもできないで」というのが、自分の貞操を守れなかったという意味だと考えられることから、「閉ざされた園、封じられた泉」とは、その貞操をしっかりと守っているということでしょう。

 箴言5章15節以下で、妻を「井戸」、「泉」(同15節)、「水の源」(同18節)と表現して、「その水をあなただけのものにせよ、あなたのもとにいるよその者に渡すな」(同17節)と語っていることも、この解釈を支持するものと思われます。

 ヘルモン山のふもとには、ヨルダン川の源流があります。ヘルモンの頂きに降り積もった雪が解けて流れて地下をくぐり、フィリポ・カイサリア近くから泉となって湧き出し、ヨルダン川に注いでいるのです。冒頭の言葉(13節)の「ほとり」とは、ヨルダン川水源地の泉のほとりということでしょう。

 そのほとりには、「みごとな実を結ぶざくろの森」があると記されています。「森」と訳されている「パルデース」という言葉は、「果樹園(orchard)」という意味ですが、これは、ペルシャからの外来語だそうで、ここからギリシア語の「パラデイソス」(ルカ福音書23章43節=「パラダイス(楽園)」)という言葉が出て来たのです。

 主イエスがフィリポ・カイサリア地方に行かれたとき、弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられると(マタイ福音書16章15節など)、シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました(同16節)。

 フィリポ・カイサリアは、領主ヘロデがローマ皇帝(カエサル)のために建て、皇帝礼拝が行われていた町です。そこで、パレスティナを支配しているローマ皇帝ではなく、主イエスこそ自分たちの主、メシアであり、生ける神の子であるという信仰を言い表すのは、とても意義深いことです。

 というのは、ここから流れ下ったヨルダンの流れが全イスラエルを潤しているように、その信仰がイスラエル全土に広く及ぶことを願っているからです。主イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを表したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(同17節)と、そのペトロの答えを喜ばれました。

 そして、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と言われました(同18節)。イエスを主、メシアと告白する信仰を土台として、その岩の上にキリストの体なる教会が建てられるのです。そしてその教会は、陰府の力をも凌駕すると言われています。

 このことから、キリストを信じ、キリストと結ばれるところにキリストの教会が建てられ、そこが霊の実の豊かに実る楽園(パラダイス)となることを示しているようです。パラダイスは、主イエスが共におられ、私たちに与えられた聖霊は、私たちに実を結ばせる所だからからです(ガラテヤ書5章22,23節)。

 主イエスを信じる信仰に堅く立ち、聖霊の力を受けていつでもその恵みを周囲の人々に証ししていきましょう。 

 天のお父様、私たちは御言葉と聖霊の導きによって主イエスを信じ、神の子どもとなりました。私たちを楽園に共におらせ、霊の実を結ばせてくださいます。私たちの歩みを通して、キリストのよき香りを放つことが出来ますように。聖霊の風を吹かせてください。 アーメン