「彼らに別れるとすぐに、恋い慕う人が見つかりました。つかまえました。もう離しません。母の家に、わたしを産んだ母の部屋にお連れします。」 雅歌3章4節

 1節に、「夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても、求めても、見つかりません」と記されています。「ふしど」(ミシュカーブ)とは、夜眠る寝所、寝床のことです(口語訳、新改訳は「床」と訳す)。そこに恋い慕う人を求めるということは、おとめが若者との親しく深い交わりを望んでいるということです。

 しかしながら、「求めても、見つかりません」。いるはずと思っていた場所にいないので、その交わりが出来ないのです。そこでおとめは、「起き出して町をめぐり、通りや広場をめぐって」、若者を探します(2節)。

 とはいえ、夜の町で若者を見出すのは、至難の業でしょう。町を巡る夜警に出会い、「わたしの恋い慕う人を見かけましたか」と尋ねたところで(3節)、望む答えが返ってくるとは考えられません。そもそも、パレスティナの習慣で、夜、女性が街を一人歩きして、若者を探すというのは、到底考えられないことです。

 ですから、実際にそうしたというより、そのようにしてでも、恋い慕う人を見つけ、交わりのときを持ちたいというおとめの心の内を、詩的に表現したものと考えるべきなのかも知れません。

 ここで、「求める」(バーカシュ)という言葉は、エレミヤ書29章13,14節に、「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」とありますが、ここに「尋ね求める」と訳されているのが、その言葉です。

 預言者たちはこの言葉を、神とイスラエルとの関係を表す表現として用いています(イザヤ書51章1節、65章1節、ホセア書3章5節、6章6,15節など)。つまり、私たちが主を尋ね求めるならば、主を探すならば、お会いすることが出来る、交わりを回復することが出来るということで、私たちが悔い改めて神に立ち帰るように、求めているわけです。

 若いおとめは、恋しい人との関わりを失い、それを求めますが見いだせませんでした。外に出て夜警に尋ねますが、別れてしまいます。これは、イスラエルの民が主なる神との関係を壊したこと、夜警ならぬ預言者と出会うけれども、その言葉に耳を傾けようとはしなかったという、イスラエルの旧約時代の歴史と重ねることが出来るようです。

 ところが、図らずもおとめは恋い慕う若者が見つかりました(4節)。それは、おとめが探し求めたからというより、若者がおとめの前に姿を現したからということでしょう。

 イスラエルが神に背き、預言者の言葉にも耳を傾けなかった結果、夜の闇をさまようような、捕囚生活を余儀なくされました。しかし、その生活に終止符が打たれるときが来ます。それは、イスラエルが悔い改め、まっすぐに神を求めたというより、神が苦しむイスラエルの民の声を聞き、憐れまれたからでしょう。

 詩編の記者が、「主は幾度も彼らを助け出そうとされたが、彼らは反抗し、思うままに振る舞い、自分たちの罪によって堕落した。主はなお、災いにある彼らを顧み、その叫びを聞き、彼らに対する契約を思い起こし、豊かな慈しみに従って思いなおし、彼らをとりこにしたすべての者が、彼らを憐れむように計らわれた」(詩編106編43~46節)というのは、そのことです。 

 そして冒頭の言葉(4節)で、「つかまえました、もう離しません」と言います。まるで、逃げられないように、縄でもかけて連行するといった感じです。そうしておとめは、若者を自分の母の家、おとめを産んだ母の部屋に案内します。これは、母に若者を紹介すること、そして、自分が母の胎に身籠ったまさにその場所で、自分たちの愛を確認する行為を期待しているのです。

 パレスティナでは、結婚の日に、花婿が花嫁を迎えに行き、自分の家に連れて来るというのが習わしでした。即ち、花婿は晴れ着を着て、冠をかぶり、友人たちと歌を歌いながら花嫁の家に行き、豪華な着物を着、宝石で身を飾り、ベールで顔を覆っている花嫁を迎え、花嫁の友人たちを伴って自分の家に帰ります(イザヤ書61章10節、詩編45編14,15節など)。

 その意味で、今日の箇所は習慣を打ち破っています。愛はどんな困難でも乗り越えるものという解釈も許されるでしょうか。この世の習慣や法律によって、心の底から湧き上がって来る熱い思いを縛ることは出来ないということでしょう。

 ここで、「つかまえる」(アーハズ)という言葉には、「支える」という意味もあり、詩編73編23節では、「あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしは御もとにとどまることができる」と用いられています。

 花嫁とは教会のこと、あるいは主イエスを信じる信徒のこと、若者は主イエスのことと考えると、この言葉は、私たちがキリストをしっかりと捕まえたということになります。それは、キリストを信じることが出来た、確信が持てたといった表現でしょうけれども、それは私たちの考えであって、実際は、むしろキリストに「手を取られ、支えられて」のことだといってよいのではないでしょうか。

 主イエスが、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15章16節)と言われていることが、それを示しています。主の深い愛と憐れみがあるからこそ、悔い改めてその赦しに与ることが出来るのであり、神の子として生きることが出来るのです。

 主の愛に捉えられて、その真実なご愛に応えて歩む者とならせていただきましょう。

 主よ、私たちも主イエスを信じて罪赦され、神の子とされ、永遠の命が授けられました。聖霊を通して注がれる神の愛に満たされ、その愛に応えて生きる者とならせてください。日々御言葉に耳を傾け、御心を行う者とならせてください。 アーメン