「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。」 箴言27章1節

 冒頭の言葉(1節)の「誇る」(ティトゥハレール)と、2節の「ほめる」(エハレレハー)は、同じ語根(ハーラル)が用いられています。「ハーラル」は「輝く」という意味の言葉で、「誇る」は、「自分自身を輝かす」(ハーラルのヒトパエル形)ということで、自慢する、誇るという訳になっています。

 「一日のうちに何が生まれるか知らないのだから」(1節)という言葉について、『明日のことを誇る』という言葉の関連から、ルカ福音書12章16節以下で主イエスが語られた「『愚かな金持ち』のたとえ」という話を思い出します。

 豊作で喜んだ金持ちが、蔵を大きく建て替えて、「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(同19節)と語るのを、神が「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったいだれのものになるのか」(20節)と言われました。何年先の保証を持ったつもりでも、命の保証はどこにもないわけです。

 ヤコブも、「あなたがたには自分の命がどうなるのか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生きながらえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」(ヤコブ書4章14,15節)と記しています。

 山室軍平聖書注解全集『民衆の聖書15』の箴言20章1~4節の解説に、「あさましや思えば日々の別れかな、昨日の今日にまたも会わねば」という沢庵和尚の言葉や、「明日ありと思う心の徒桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」という親鸞聖人の言葉が紹介されています。明日のことは分からないというのは、聖書の専売特許ではないということですね。

 そうだからといって、明日に計画を持っていてはいけないとか、明日のことを考える必要はない、ということではありません。神が私たちに永遠を思う心をお与えになったわけですし(コヘレト3章11節)、神の霊が注がれると、「老人は夢を見、若者は幻を見る」と言われます(ヨエル書3章1節)。
夢や幻によって、神が御心を啓示されますが、それは、明日を含む未来に関わることでしょう。

 また、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ書2章13節)という言葉もあります。神が私たち心に働きかけて望みを抱かせ、実現に向けて働かせられるということです。これらの言葉は、神が明日に計画を持ち、それを私たちに示されると教えています。

 しかしながら、私たちは明日に生きることは出来ません。私たちは過去の思い出を持っていますし、明日に夢幻を持つことは出来ますが、しかし、過去に留まって生きることも、未来に先駆けて生きることも出来ません。私たちは常に「今」を生きているのです。明日に夢を持ちながら、過去の様々な経験や知識に学びながら、今日を生きるのです。

 主イエスが、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ福音書6章34節)と言われたのは、そのことでしょう。

 明日のことまで思い悩むのは、明日に計画を持ち、私たちを生かしておられる主なる神を信頼していないからです。明日のことを誇るのは、明日に計画を持ち、啓示してくださった神の栄誉を自分のものにしようとすることなのです。

 あらためて、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ」(3章5~7節)との御言葉に耳を傾け、神の御前に謙り、「何よりもまず、神の国と神の義を求め」(マタイ福音書6章33節)て、御前に進みましょう。

 「『誇る者は主を誇れ』。自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」(第二コリント書10章17,18節)。

 主よ、私のうちに見張りを置き、唇の戸を守ってください。私の心が悪に傾くのを許さないでください。主よ、造られたものがすべてあなたに感謝し、あなたの慈しみに生きる人があなたを称え、あなたの主権の栄光を告げ、力強い御業について語りますように。主はすべての者に恵みを与え、造られたすべての者を憐れんでくださるからです。 アーメン