「主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。」 詩編147編15節

 147編は、ハレルヤで始まり、ハレルヤで閉じられる、「ハレルヤ詩編」(146~150編)の2番目のものです。

 「主はエルサレムを再建し、イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる」(2節)という言葉から、この詩は、バビロン捕囚後、帰国した詩人によって詠われたものであると考えられます。

 1節から、神をほめ歌う喜び、賛美の心地よさが語られます。それは、「打ち砕かれた心の人々を癒やし、その傷を包んでくださる」という、バビロンでの苦しく辛い捕囚の生活から解放された喜びであり、それはまた、神が自分たちに目を留めていてくださったということを再確認した喜びでもありましょう。

 イスラエルは神に背き続けて怒りを買い(列王記下24章18節以下)、バビロン軍にエルサレムの都を落とされ、神殿や王宮が焼き払われ、城壁も取り壊されました(同25章8~10節)、そしてイスラエルの民は、エデンから追放されたアダムとエバのごと、御前から突き放されたようにバビロンに捕囚として連行され(同11,21節)、過酷な苦しみを味わわなければならなくなりました。

 彼らは、金輪際故国の土を踏むことはあるまいと覚悟していたのに、その嘆きを聞かれた神が歴史の中に介入されて、国に帰り、神殿を再建することが許されたのです(歴代誌下36章22節以下、エズラ記1章1節以下)。

 彼らは捕囚の苦しみによって、神の選民としての誇りが打ち砕かれましたが、主なる神は彼らを包んで癒されました(3節)。これは、詩編でも度々記されてきた重要なテーマです(34編18,19節、51編19節など)。

 捕囚となったイスラエルの民にとって、自分たちが神の民であることを確認するのは、神の御言葉だけでした。バビロンに神殿はなく、契約のしるしである神の箱も失われていました。けれども、イザヤらによって語られた預言の言葉が、捕囚の民を励まし、力づけたのです(イザヤ書40章以下、43章5節、エレミヤ29章10節以下など)。そして、その預言の通りに帰国が許されたわけです。

 あらためて神は、神を礼拝する民をイスラエルの地に置かれました。彼らは、馬の勇ましさや人の足の速さに示される戦の強さなどではなく、主を畏れ、その慈しみに生きることにより(10,11節)、主の祝福を受けて、城門のかんぬきが堅固になり、国境に平和が置かれ、その内に住む子らが祝され、豊かな収穫に与ることが出来るのです(13,14節)。

 冒頭の言葉(15節)に、「主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る」と言われています。神の言葉は、神の口から出ると、神の望まれることを成し遂げ、使命を必ず果たします(イザヤ書55章11節)。

 神が「光あれ」と言われると、光が出来ました(創世記1章3節)。「仰せを地に遣わされ」、「御言葉は速やかに走る」というのは、16,17節の「雪を降らせ」、「霜をまき散らし」、「氷塊をパン屑のように投げられる」との関連で、雷鳴が轟くということかと思われます。

 そして、15節以下の段落は、この地を裁く言葉ということです。19節に、「主はヤコブに御言葉を、イスラエルに掟と裁きを告げられる」と言われているとおりです。

 17節後半に、「誰がその冷たさに耐ええよう」とあるように、神の裁きに耐えることが出来る者はいません。然るに、「御言葉を遣わされれば、それは溶け、息を吹きかけられれば、流れる水となる」(18節)というように、救いの道も備えておられるのです。

 神の口から出て、神の望まれることを成し遂げ、使命を必ず果たす神の言葉として、「地に遣わされた」仰せという言葉で思い出すのは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」で始まるヨハネ福音書1章の記事です。

 同14節に、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と言われます。即ち、神が地に遣わした仰せ、私たちの間に宿った「言」とは、主イエスのことです。

 主イエスはご自身を十字架に贖いの供え物として、私たちのために救いの道を開いてくださいました(ローマ書3章24節、ガラテヤ書4章5節、コロサイ書1章14節など)。主イエスを信じ、その名を受け入れた者には、神の子となる資格さえお与えくださったのです(ヨハネ福音書1章12節)。

 今日も御言葉に耳を傾け、その導きに従って、豊かな恵みに与りましょう。

 主よ、キリストの贖いにより、救いの恵みに入れていただきました。それは、一方的な恵みであり、憐れみです。絶えず御前に謙り、主を畏れて御言葉に耳を傾け、その導きに喜んで従うことが出来ますように。御名を崇めさせたまえ。 アーメン