「主よ、わたしの魂を助け出してください。偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」 詩編120編2節

 120~134編には、「都に上る歌」という表題が付けられています。「都に上る」というのは、三大祝祭(過越祭、七週祭、仮庵祭)への巡礼の旅を指していると考えられます(申命記16章16節)。巡礼の旅の間、ないし祭りの行進において用いるために、ここに集められているのでしょう。

 120編は、「都に上る歌」歌集の冒頭に置かれていますが、その内容は、祝祭に参加するために都に上るときの華やいだ思いとはほど遠く、異国によそ者として住んでいる詩人が、苦難の中から救いを願い求めた祈りの歌と言えそうです。

 5節に、「わたしは不幸なことだ。メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは」とあります。「メシェク」とは、はるか北方、黒海とカスピ海の間の地域を指すようです(エゼキエル書38章2,3節)。また、「ケダル」とは、パレスティナの東方、アラビアの荒れ野を指しています(イザヤ書21章16,17節、エゼキエル書27章21節)。

 これは、二つ併せて、イスラエルのはるか北東方向ということで、ヨハネの黙示録において「バビロン」が「ローマ」を指していたように、「メシェク」と「ケダル」で「バビロン」を意味しているのではないでしょうか。であれば、「わたしは不幸なことだ。云々」というのは、バビロンに捕囚となったことを嘆いているわけです。

 すると1節の「苦難の中から主を呼ぶと、主はわたしに答えてくださった」という言葉は、捕囚の苦しみの中で主を呼び求めたとき、主が祈りに応えて捕囚から解放され、エルサレムへの帰還を果たすことが出来たと語っていると考えることも出来ます。それだから、「都に上る歌」という表題がつけられたのかも知れません。

 詩人は、冒頭の言葉(2節)で「偽って語る唇」、「欺いて語る舌」といい、3節でもそれを繰り返しています。それは、詩人に敵対する存在であることを示します(5編10,11節、10編7節、12編3~5節、31編18,19節など)。

 5節のメシェクやケダルはその敵対者の住むところで、彼らは「平和(シャローム)を憎む者」(6節)であり、7節で「彼らはただ、戦いを語る」と告げられます。そのような好戦的というか、争い好きな者たちに囲まれる中で、詩人は平和のない生活を余儀なくされているのでしょう。

 70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)で7節は、「わたしは平安だったが、わたしが彼らに語ると、彼らはわたしと空しく戦った」という言葉になっており、詩人を苦しめる者たちは、偽りの言葉、欺きの言葉をもって戦いを挑んで来たのでしょう。

 そこで詩人は、3節で、「主はお前に何を与え、お前に何を加えられるであろうか、欺いて語る舌よ」と語って、神が彼らにきっちりと仕置きしてくれることを求めているわけです。

 新共同訳は4節を「勇士の放つ鋭い矢よ、エニシダの炭火を付けた矢よ」と訳して、3節の「欺いて語る舌」を言い換えた表現と捉えています。一方、口語訳は「ますらおの鋭い矢と、えにしだの熱い炭とである」として、欺いて語る者たちに神が報いを与えるものと考えているようです(新改訳、岩波訳も同様)。 

 ただ、バビロン捕囚の苦しみを味わったのは、彼らがまことの神に背き、主との契約を蔑ろにしたからでしょう。その意味で、偽って語る唇、欺いて語る舌の持ち主は、自分自身ということになるのではないでしょうか。

 主に信頼して安心しているよりも、エジプトやアッシリア、バビロンなどに囲まれている中で、いかにより強い者に与するかということに汲々としていたわけです。だから、主がイスラエルの民に加えられた仕置きが、「メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住む」(5節)ことだったのです。

 詩人は、神に背いた民の心の有様が、約束の地から遠く離れた「メシェクに宿り、ケダルの幕の傍らに住」んでいるようなものだったと示されたのでしょう。そして、その苦難の中から主を呼んだということは、自らの罪を認めて主の御前に悔い改めたということであり、主が答えてくださったとは、彼らの罪を赦し、救いの恵みをお与えになったということです。

 神の宝の民として特別な恵みに与り、祝福の内に守られていたイスラエルの民が、神の御翼のもとから外に出て自分勝手に振舞い、その結果、一切の祝福を失ってバビロン捕囚となり、そこで、あらためて神を思い出して悔い改めたというのは、主イエスがルカ福音書15章11節以下で語られた「放蕩息子のたとえ」のようです。

 それは、弟息子が父の財産を生前に分けてもらって旅立ち、放蕩に身を持ち崩してしまい、すっかりお金を使い果たして生活に窮するようになったとき、ようやく本心に立ち返ったという話です。そして、父親は、悔い改めて帰って来た弟息子を喜び迎えるのです。

 今日、主イエスを信じて救いに与り、神の宝の民の一人に加えて頂いた私たちですが、あらためて、2節の言葉を思います。私たちは自分で自分の「偽って語る唇、欺いて語る舌」、即ち神に背く罪から、自力で逃れることが出来ませんでした。主の助けを必要としています。だから、日々御言葉を聞き、「わたしの魂を助けてください」と祈り求めるのです。

 真の平和をお与えくださる恵みの主を仰ぎ、喜びをもって御前に進み、謙ってその御言葉に耳を傾けましょう。その導きに従って歩むことが出来るよう、聖霊の導きを祈りましょう。 

 主よ、どうか私たちの心に、迷いの道がないか、偽り欺く思いがあるかどうか、心を探ってください。そして、どうか、とこしえの道に導いてください。あなたの慈しみが私たちの上に常に、永久にありますように。 アーメン