「子のない女を家に帰し、子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」 詩編113編9節
113編は、ユダヤ教の伝統において、「ハレル」と呼ばれる詩編歌集(113~118編)の最初の詩です。「ハレル」とは、「ほめたたえる」という意味です。バビロン捕囚後に感謝の歌として礼拝用に作られたと考えられています。
「ハレル」は、特にユダヤの祝祭のときに歌われました。それは、「ハレル」が、出エジプトにおいて表された神の御業をほめたたえるにふさわしい内容となっているからです。
「ハレル」は、特にユダヤの祝祭のときに歌われました。それは、「ハレル」が、出エジプトにおいて表された神の御業をほめたたえるにふさわしい内容となっているからです。
であれば、主イエスの最後の晩餐の後、「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」(マルコ福音書14章26節)という御言葉にある「賛美の歌」とは、最後の晩餐が「過越の食事」としてなされているので(同14章12節以下)、この「ハレル」のことと考えてもよいでしょう。
この詩は、1~3節が賛美への呼びかけ、4~6節が主の威光についての賛美、そして7~9節が主の憐れみの御業に対する賛美という内容になっています。
賛美を呼びかけられているのは、「主の僕ら」(1節)です。彼らは主の自由な選びによって召し出され、その召しに応じた者たちです。その選びのゆえに、恵みの主をたたえます。彼らは、「今よりとこしえに」(2節)、「日の昇るところから日の沈むところまで」(3節)と、時間的にも空間的にも限りなく主をたたえる奉仕に召されたのです。
詩人は、主の比類のなさを、「わたしたちの神、主に並ぶ者があろうか」(5節)と反語的に問い、「すべての国を超えて高くいまし」(4節)、「主の栄光は天を超えて輝く」(5節)と歌います。しかも驚くべきことに、すべてを超越しておられる主が、低きにいるすべてのものに深く関わってくださるのです(6節)。
低きにいるすべてのものについて、7節に「弱い者」、「乏しい者」、冒頭の言葉(9節)に「子のない女」と言われています。そして、彼らに関わってその苦しみから解放し、救い出された神の御業を、8節で、「自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返してくださる」、冒頭の言葉で「子を持つ母の喜びを与えて下さる」と詠って、主を賛美しているのです。
特に、冒頭の言葉の、子のない女に子を持つ母の喜びを与えるというのは、聖書に何度も出てくる重要な主題です。まず創世記に紹介されるイスラエルの父祖、アブラハムの妻サラ(創世記11章30節、21章1~8節)、イサクの妻リベカ(同25章21節)、ヤコブの妻ラケル(同29章31節、30章1,2節、22~24節)がそうでした。
また、サムソンの母(士師記13章2節以下)、サムエルの母ハンナ(サムエル記上1章2節以下)、そして、新約の時代においても、バプテスマのヨハネの母ハンナ(ルカ福音書1章7節、13節以下、36節、57節以下)がそうです。
不妊の女性が子を産むというのは、神の助けなしにはきわめて困難なことです。「弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ」(7節)は、ハンナの祈り(サムエル記上2章1節以下、8節)やマリアの賛歌(ルカ福音書1章47節以下、52節)とも一つに結び合う内容です。そして、彼女たちに授けられた子らは、イスラエルの歴史の中で、大変重要な役割を果たしたのです。
イザヤ書54章1節にも、「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは、夫ある女の子供らよりも数多くなると主は言われる」と語られています。これは、バビロンに捕囚となったイスラエルの民が、解放されてエルサレムに戻ってくることを預言しているのです。
イスラエルの民がこの詩を、特に過越の食事の前後に歌っているということは、バビロン初秋からの解放を出エジプトの出来事と重ねているわけです。そして、主イエスが最後の晩餐の後、この歌をうたってオリーブ山に出かけられたのは、単に過越の時になされる習わしだからということに留まらず、受難を出エジプト、バビロンからの解放と重ねていると考えてもよいでしょう。
バビロン捕囚は、イスラエルの民の背きの罪が原因でした。彼らが救い出されたのは、ひとえに神の憐れみによるものです。神殿の再建、イスラエルの再興は、神の憐れみなしには、為(な)し能(あた)わざることでした。それゆえ、「歓声をあげ、喜び歌え」と言われるのです。
主なる神は、罪を犯した私たちを憐れみ救うために、独り子イエスを贖いの供え物として十字架につけられました。ここに、すべての国を超えて高くいます主が、低く下られたという事実を見ることが出来ます(フィリピ書2章6~11節)。
主の憐れみにより、救いの恵みに与った私たちです。私たち自身を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして神にささげましょう。それが、私たちのなすべき礼拝(=奉仕 service)なのです(ローマ書12章1節)。
私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父よ、どうか私たちに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。 アーメン
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