「ハレルヤ。いかに幸いなことか、主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人は。」 詩編112編1節

 112編は、111編の姉妹編ということが出来ます。

 どちらも、ハレルヤで始まります。そして、その「ハレルヤ」を除けば、いずれの詩も、各行の初めの文字が、ヘブライ語のアルファベット順に並んでいます。また、それぞれの行が三つの単語ないし結合された三つの語句で構成されています。

 また、111編は、「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く」(10節)という言葉で終わっており、それを受けるかたちで112編は、冒頭の言葉(1節)のとおり、「ハレルヤ。いかに幸いなことか、主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人は」という言葉で始まっています。

 また、「恵みの御業は永遠に続く」(111編3節)と「彼の善い業は永遠に堪える」(112編3,9節)は、ヘブライ語では、双方全く同じ、「彼の正義はとこしえに立つ」(ツィドゥカートウ・オーメデト・ラーアド)という言葉遣いです。一種のリフレインのような役割といえばよいでしょうか。

 ただし、111編の「彼」は主なる神であるのに対し、112編では主を畏れ、その戒めを愛する「人」を指すという違いがあります。主は恵みの御業を今も行っておられ、主を畏れる人はそれをいつまでも受け取ることが出来るわけです。

 このように、111編は、人のために驚くべき恵みの御業をなされる主への感謝と賛美の歌で(1,10節)、一方112編は、主を畏れ、戒めを深く愛する人に与えられる祝福を語る歌になっており(1節以下、7節以下)、相互に補完する関係と言えます。

 このような二つの詩の関係から、主を畏れ、戒めを深く愛するというのは、人のために驚くべき御業をなされる主への感謝と賛美であるということになります。反対に、主への感謝と賛美をささげるというのは、その人が神の驚くべき御業を経験したからで、その御業によって、その人が豊かな恵みを味わったからです。

 けれども、恵みが豊かであればあるほど、嬉しいという思いよりもむしろ、畏れを感じるものです。というのは、自分自身、そのような恵みを受けるのにふさわしい人物であるとは思えないからです。

 一晩中不漁で、主イエスの「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしてみなさい」という言葉に、やっても無駄という言葉を呑み込んで「お言葉ですから」と従い、舟が沈みそうになるほどの大漁になったとき、シモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者なのです」と言いました(ルカ福音書5章4節以下、8節)。

 ペトロは、イエス様がついていれば鬼に金棒、もう不漁になることはない、これからはいつも一緒に舟に乗ってくださいとは、求めなかったのです。そうではなく、驚くべき主の御業に触れて、ペトロは主を畏れました。主の恵みがペトロの心を照らした折、彼は、自分が罪深い者であることを悟ったのです。

 けれども、主イエスがその御業を現されたのは、ペトロたちを驚かせ、その罪を裁くためではありません。彼らを「人間をとる漁師」として招くためです(同10節)。「人間をとる」というのは、人を生け捕りにするという言葉で、ここは、人を活かす漁師という表現ではないかと思われます。

 それは、マルコ3章14,15節との関連で、福音を宣教し、悪霊を追い出すという働きをなすことです。勿論、ペトロたちにそれをする力がある、彼らはその資格十分ということでもありません。主を畏れ、その御言葉に従うとき、彼らのその従順な信仰を通して神の御業がなされ、それによって、人に命を与えることが出来るということです。

 つまり、主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人とは、律法違反の罰を恐れてこわごわ従う人ではなく、また、規律によってがんじがらめにされるということでもなく、自分の罪深さを知るがゆえに、いっそう神の恵みに深く感謝し、その御言葉に信頼し、喜んで従う人のことをいうのです。

 主と主の御言葉に対する愛と信頼のゆえに、「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る」(4節)という恵み、「悪評を立てられても恐れれない」(7節)、「敵を支配する」(8節)という平安や喜びを味わうことが出来るのです。

 お互いの愛と信頼が脅かされている今こそ、主イエス信じ、主の御言葉を深く愛して固く立ち、憐れみに富み、情け深く、正しい主の光を世に輝かせましょう。

 天のお父様、御子イエスを通して示された神の愛と赦しのゆえに、心から感謝致します。私たちの心もキリストの光に照らされており、絶えず、平安をもって歩むことが出来ます。周りの人々、特に、悩み苦しみのうちにいる人々に、恵みの光、愛の光、命の光を届けることが出来ますように。 アーメン