「主を畏れる人に糧を与え、契約をとこしえに御心に留め、御業の力を御自分の民に示し、諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。」 詩編111編5,6節

 111編は、続く112編と対をなす詩です。111編は、主を畏れる者たちによってなされる主の御業を賛美する詩です。そして、112編は、主を畏れる者たちを賞賛するものです。

 冒頭の「ハレルヤ」を除くと、ヘブライ語のアルファベットの数と同じ22行です。各行の最初の文字がアルファベット順に並んでいるので、「アルファベットによる詩」と注記されています。これまでにも、いくつか出て来ました(9,25,34,37編など)。

 さらに、それぞれの行は三つの単語ないし、結合された語句で合成されています。これは、何より詩を記憶しやすくするための技巧ですが、しかし、作詩の際に、相当の制約となったことでしょう。

 それだけに、「わたしは心を尽くして主に感謝をささげる」(1節)という言葉のごとく、少ない言葉に思いを込めて感謝の意を表わすという作者の意図が、そこに示されます。

 まず1節で、主への感謝をささげるものであることを告げ、2節には、この詩のテーマが提示されます。それは、主の大いなる「御業」(マアセ)です。新改訳は、「主の御業は偉大で」と語っています。御業、主の業という言葉は、3,4,6,7節に繰り返し用いられています。

 そこに語られている偉大な御業、驚くべき御業、新改訳は4節を「奇しいわざ」と訳していますが、それは、出エジプトの出来事を指していると考えられます。「驚くべき御業を記念するよう定められた」と記されていますが、過越祭(出エジプト記12章1節以下、同43節以下)と、それに続いて守られる除酵祭、パン種を取り除く祭り(同12章15節以下、同13章3節以下)は、出エジプトの出来事を記念して行われる祭りだからです。

 列王記下23章22節に、「士師たちがイスラエルを治めていた時代からこの方、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われることはなかった」という記述があります。これは、ヨシヤ王が過越祭を行わせたことについての評価です。つまり、「記念せよ」という主の言葉が、ヨシヤ王の時代までは蔑ろにされていたということです。

 そして、ヨシヤ以後の王たちもそれを蔑ろにし続けたので、国が滅び、捕囚とされる憂き目を見ることになったのです。

 あらためて、「主は驚くべき御業を記念するよう定められた」(4節)と語られているということは、エジプトにおいて奴隷生活をしていたのと同様、イスラエルの民がバビロンにおける捕囚の生活を送っており、もう一度出エジプトの出来事を思い起こそう、主の恵みと憐れみを思い出そうとしているということではないでしょうか。

 出エジプトの民は、荒れ野の旅路において何度も不平を言い、神に背きましたが、神は彼らを憐れみ、彼らの必要に応えられました。それが冒頭の、「主を畏れる人に糧を与え、契約をとこしえに御心に留め、御業の力を御自分の民に示し、諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる」(5,6節)という言葉に示されています。

 かつて、父祖たちがシナイの荒れ野を約束の地カナンに向けて旅していたとき、主なる神はイスラエルの民のために天から「マナ」というパンを降らせ、またウズラの肉を与えて、民を養われました(出エジプト記16章)。また、岩から水を出して飲ませられました(同17章1節以下)。そして、「嗣業の地」(ナハラー、新改訳は「ゆずりの地」)カナンを得ることが出来ました(ヨシュア記)。

 それは、主なる神がイスラエルの民との間に結ばれた契約を誠実に守られたからです。主なる神は、シナイにおいて出エジプトの民と契約を結び、彼らをご自分の宝の民とされました(出エジプト記19章3~6節、24章3~8節)。それは、イスラエルの民が優れた数の多い民であったからではなく、むしろ貧弱な民だったので神の憐れみを受けたのです(申命記7章6節)。

 同様に、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて帰郷が許され、エルサレムに第二の神殿を建て、都の城壁を築き直し、国を再建することが出来るのは、ひとえに神が父祖たちと結んだ契約を御心に留め、それを忠実に守られるからです。「御手の業はまことの裁き、主の命令はすべて真実、世々限りなく堅固に、まことをもって、まっすぐに行われる」と言われるとおりです(7,8節)。

 ここで「まこと」(エメト)とは、「忠実(faithful)、真実(truth)」、「裁き」(ミシュパート)は「公正(justice)」という意味です。新改訳は直訳的に、「御手の業は真実、公正」と訳しています。主は、契約を通してイスラエルの民のために、かつて父祖らが守ることの出来なかった真実と公正を創り出してお与えくださいます。

 10節は、「主の賛美は永遠に続く」(新改訳は「主の誉れは永遠に堅く立つ」)という結びの言葉の前に、「主を畏れることは知恵の初め」という教訓が語られています。知恵についてのこの命題は、箴言に2回、ヨブ記に1回登場します(箴言1章7節、9章10節、ヨブ記28章28節)。9節にも、「御名は畏れ敬うべき聖なる御名」(新改訳「主の御名は聖であり、おそれおおい」)と語られています。

 「これを行う人は」の「これ」は原文は複数形(それら)です。7節の、真実と公正を表す「主の命令」(新改訳「すべての戒め」)が複数形で、それを受けているわけです。つまり、私たちにとって、主を畏れることは神のご命令であり、それを通して神の真実と公正が実現するのです。

 詩人が「命令」(戒め)というのは、トーラー、神の教えのことでしょう。知恵とは、神の教えが記されている神の御言葉、聖書を学び、それに生きることによって初めて得られるものです。私たちは、聖書を通して、イスラエルになされた主なる神の大いなる御業を学ぶことが出来ます。

 主は恵み深く、憐れみに富み、契約を結んだ私たちを常に御心にとめてくださいます。今日も、十字架にかかられた主イエスの御口を通して語られる神の御言葉によって豊かに養われ、主への畏れをもって心から御名をほめたたえましょう。

 主よ、御子イエスの十字架の贖いによって私たちは神の子とされました。それほどの大きな恵みと憐れみの中に生かされていることを覚え、絶えず感謝と喜びをもって主に従い、御霊の力を受けて、日々の生活の中に「互いに愛し合いなさい」という主の御命令を実践することが出来ますように。 アーメン