「彼らは呪いますが、あなたは祝福してくださいます。彼らは反逆し、恥に落とされますが、あなたの僕は喜び祝います。」 詩編109編28節
109編は、善意に悪意で答える敵からの救いを求める「祈りの詩」です。
その中で、8~20節は、詩人を苦しめる者に対する呪いの言葉になっています。注解者の中には、この部分は、詩人を苦しめる者の言葉であるという立場をとる人もいます。その通りなのかも知れません。
しかしながら、前段(6,7節)には、敵対者の裁きを願う言葉がありますし、17節の、「彼は呪うことを好んだのだから、呪いは彼に返るように」という言葉が敵対者の言葉なら、詩人が呪いを好んでいる、先に呪いの言葉を口にした詩人に、それが返るように、と言っていることになります。
詩人が先に敵を呪ったということになれば、4,5節の、敵は詩人の善意に悪意で答えるという表現と適合しません。喧嘩を売ったのは、むしろ詩人の方だということになってしまうからです。
8~15節を相手の呪いの言葉、そして、16節以下は詩人が相手を呪う言葉としてとらえ、自分の善意に悪意で答えるような、善意の人を呪うことを好む輩の上に、その呪いが返るように願う言葉と考えるべきだろうと思います。
詩人は、神に逆らう輩が自分を欺き、偽りの言葉をもって語りかけ(2節)、それによって自分を苦しめるのは、理由のないことだと言い(3節)、詩人は相手に愛を示したのに、相手は敵意を示し、善意に対して悪意を返すのだと訴えます(4,5節)。ということは、自分が相手を呪うのは、理由のないことではない、彼らの自分に対する悪意に対抗するのだと言っていることになります。
ただし、いったい誰が、自分は相手を苦しめる正当な理由もないのだけれども、とにかく呪ってやろうと考えるでしょうか。誰もが、自分には正当な理由がある、悪いのは相手だと考えていることでしょう。しかし、自分にとって正当だという理由が、相手にしてみれば不当であるということも、往々にしてあることです。
詩人は、主の慈しみによってこの苦しみから救われることを願い(26節)、冒頭の言葉(28節)のとおり、「彼らは呪いますが、あなたは祝福してくださいます」と語り(28節)、祝福を求めました。神は呪いを祝福に変えることが出来ると詩人は信じているわけです。ゆえに、敵は恥に落とされ、自分は喜び祝うことが出来るというのです。
かつて、モアブ王バラクが呪い師バラムを招き、イスラエルを呪おうとしたことがあります(民数記22章以下)。ところが、神は呪い師バラムに、イスラエルを祝福するよう命じました(同23章7節以下、18節以下、24章3節以下)。
三度語られた祝福の言葉の最後は、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたを呪う者は呪われる」という言葉でした(同24章9節)。それは、神がアブラハムに対して与えた、イスラエルを祝福の源として、地上のすべての氏族に祝福を約束する言葉でもあります(創世記12章3節)。
であれば、詩人も考えなければなりません。自分を苦しめる相手には呪い、苦しめられている自分には祝福をと願い求める気持ちは大変よく分かります。誰もがそう願うことでしょう。しかし、相手を呪うことは、神が良しとされることでしょうか。
神は、敵が自分を呪う言葉を祝福に変えることがお出来になるように、自分が敵を呪う言葉をも、祝福に変えることがお出来になるのです。そして、神は祝福する者を祝福し、呪う者を呪うと言われているので、敵に対しては、自分の呪いの言葉を祝福に変えて与え、敵を呪った自分には、その呪いが返ってくるということにもなるのです。
神は私たちに、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」と命じておられます(第一ペトロ書3章9節)。
誰がその命令に従えますか。誰にも出来ることではないかも知れません。そういう私たちのために、キリストが犠牲となられました。殺す者を赦し、祝福を願われたのです(同3章18節以下)。その主イエスの執り成しにより、私たちは恵みに与りました。
主イエスを心の王座に迎え、アブラハムの子として、祝福の源とならせて頂きましょう(創世記12章2節)。
主よ、弱く乏しい私たちの右に立って、私たちを守り支えてください。私たちの心の王座に着き、すべての人々の祝福を祈る者とならせてください。世界に広がるテロへの不安と、テロとの戦いと称して続けられる報復の戦闘という負の連鎖を断ち切り、国際平和のために同じテーブルに着いて話し合うときが一刻も早く到来しますように。 アーメン
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