「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。」 詩編91編15,16節

 91編は、「避けどころ、砦」(2節)なる神に対する「信仰の歌」です。イスラエルの歴史は、様々な苦難から救い出された神の御業の歴史でもあります。3節以下に記されているのは、これまでイスラエルが経験して来た出来事を箇条書きに羅列したようなものでしょう。

 4節の、「陥れる言葉」は、「疫病の惨事」といった言葉です(口語訳・新改訳「恐ろしい疫病」)。「疫病」(デベル)と「言葉」(ダバル)は同じ綴りなので、新共同訳は敢えてそのように読み替えたのでしょう。5節の、「昼、飛んで来る矢」は、敵の攻撃を示すものですが、それは、嘲りなどの言葉による攻撃も含みます(64編4節参照)。

 続く6,7節に、「暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も、あなたの傍らに一千の人、あなたの右に一万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない」とありますが、5節と併せて、ヒゼキヤの代、南ユダに押し寄せたアッシリアの大軍18万5千人が、主の御使いに撃たれて全滅し、エルサレムは陥落を免れたという記事を思い出します(列王記下18章13節以下、19章35節)。

 歴史家ヘロドトスによれば、このときアッシリア軍は、ネズミの大群に襲われたのだそうです。ネズミはペスト菌を媒介するので、あるいはペストが蔓延してのことではないでしょうか。いずれにせよ、それによってエルサレムの町は守られたのです。

 「夜、脅かすものをも、昼、飛んでくる矢をも、恐れることはない。暗黒の中をいく疫病も、真昼に襲う病魔も」(5,6節)と、対をなしている夜と昼に襲い来る危険は、古代近東における悪魔的な諸力を示しているようです。その超自然的な危険に対処するために、呪術、魔術が用いられていました。

 それに対して、イスラエルにおいては、いと高き神に信頼することが、その危険を避ける唯一の、しかし最も強力な対処法、信仰的態度でした。それにより、神に逆らう者にはその危険が降りかかりましたが(8節)、主を避けどころとする者は災難を免れることが出来たのです(9,10節)。

 使徒パウロが、「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした」(第二コリント書11章23節)と記した後に、苦労したことのリストを発表していますが、それは、苦労したことが自慢なのではなく、そのような辛い目に遭いながらも、神に守られて使徒としての務めを果たして来たということです。

 さらに、パウロには自分の体を痛めつける一つのとげがあり、それを取り除いて下さるように、三度主に願ったと言います(同12章7,8節)。しかし、神の答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というものでした(同9節)。

 とげを取り除いてはいただけなかったのですが、パウロの弱さにも拘らず、否、弱いからこそ神に依り頼み、福音宣教の働きが前進したとき、それは神の御業であることが明らかになる、というわけです。パウロのとげとは実際に何だったのか、はっきりと分かりませんが、痛みを伴い、伝道の働きの妨げとなるからこそ、パウロは取り除いて下さるように三度も願ったわけです。

 けれども、繰り返し苦難を体験し、そして肉体のとげによって自分自身は弱くされているのに、福音の業が前進していくとすれば、それは実に神の御業と言わざるを得ないのです。そして、パウロの働きは、使徒言行録の記述とパウロの書き残した手紙によって、今もなお実を結び続けています。確かに神は、万事を益となるようにしておられるのです(ローマ書8章28節)。

 冒頭の言葉(15節)で、「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう」というのは、まさにパウロの体験のようなことではないかと、改めて教えられました。

 そして、神がご自分を慕い、呼び求める者に与えられた祝福は、「生涯、彼を満ちたらせる」ことであり、そして、「救いを彼に見せよう」ということでした(16節)。

 主イエスが、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章10,11節)と言われたのは、そのことです。私たちは、主イエスの贖いの死により、罪と死の呪いから解放され、永遠の神の御国に住まう神の子供としての恵み、特権に与る者としていただいたのです。

 私たちを極みまで愛し、命を捨てて下さった主イエスを慕い、その御名を褒め称えましょう。

 主よ、御子イエスの贖いによって、神の子とされました。主を避けどころ、砦とした私たちのために御使いを遣わし、どこでも守っていてくださいます。はばからず御前に進み、「私の避けどころ、砦.私の神、依り頼む方」と、主の御名を褒め称えさせてください。 アーメン