「しかしあなたは、御自ら油を注がれた人に対して、激しく怒り、彼を退け、見捨て、あなたへの僕への契約を破棄し、彼の王冠を地になげうって汚し、彼の防壁をことごとく破り、砦をすべて廃墟とされた。」 詩編89編39~41節

 表題の「エズラ人エタン」について、列王記上5章11節(口語訳・新改訳は4章31節)にはソロモンの時の知恵者として、その名が記されます。また、歴代誌上1517,19節には、レビ人クシャヤの子で、ヘマン(88編1節)と共に、楽器を奏で、歌をうたう詠唱者として記されています。

 89編には、38節と39節の間に、渡ることが出来ないほど深い淵があります。前半には、ダビデとの契約を結ばれた主への賛美、後半には、ダビデの子孫にもたらされた苦難による嘆きが記されています。これは、詩編の編者が、二つの詩を一つにまとめたのではないか、と解釈する学者もいます。

 その真偽は分かりませんが、50節の、「主よ、真実をもってダビデに誓われた、あなたの初めからの慈しみは、どこに行ってしまったのでしょうか」という言葉で、かつて、真実をもってダビデとの永遠の契約を結ばれた神が、その契約を破棄し、エルサレムの都を廃墟のままにしておられるのはなぜか、あの慈しみ深き神はどこへ行ってしまわれたのかと神に問う構成になっているのです。

 そうであれば、4,5節でダビデとの契約について語った後で、6節以下に天上の神々の会議について語る必要はないように思われます。そこでは、イスラエルの主が神々の中の神、王の王、主の主であられることが讃えられ(7,8節)、それが、9節以下の主の御業によって確証されています。

 主は、混沌の海の支配者ラハブを砕き(10,11節、ヨブ記26章12節、イザヤ書51章9節)、天地に秩序をもたらされました。天地創造の御業は、無から有を生じさせ、混沌に秩序を与えることだったわけです(創世記1章1節以下,ローマ書4章17節)。

 このように述べることで、20節以下にも語られるダビデとの永遠の契約、ダビデの子孫をとこしえに立て、王座を代々に備えるという約束は(5,30節)、天上における神の王権に基礎づけられたものであることを示しているわけです。 

 紀元前597年、バビロン帝国の王ネブカドネツァルがエルサレムを包囲し、南ユダの若い(18歳!)王ヨヤキンは捕囚の身となり(列王記下24章8節以下、12,15節)、以来37年、獄につながれていました(同25章27節)。

 ヨヤキンに代えて王とされたゼデキヤは(同24章17節)、紀元前587年、エジプトに援軍を頼み、バビロンに反旗を翻しましたが、直ちに返り討ちに遭い、子らは殺され、ゼデキヤは両目をつぶされて足枷をはめられ、連行されました(同24章18節以下、25章6,7節)。神殿や王宮、エルサレムのすべての家屋は焼き払われ、城壁も取り壊されました(同25章9,10節)。

 そういう事態に陥ったのは、ダビデの子孫が主の目に悪とされることをことごとく行ったからであり、それゆえ、ユダは主の怒りによって、ついにその御前から捨て去られることになったのです(同24章19,20節)。

 しかし、イスラエルの歴史はそれで終わりにはなりませんでした。列王記下25章27,28節に、「ユダの王ヨヤキンが捕囚となって37年目の第12の月の27日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。バビロンの王は彼を手厚くもてなし、バビロンで共にいた王たちの中で彼に最も高い位を与えた」と、驚くべきことが記されます。

 さらに、「ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ、生きている間、毎日欠かさず王と食事を共にすることとなった。彼は生きている間、毎日、日々の糧を常に王から支給された」(同29,30節)と記して、列王記は閉じられます。なにゆえ、ヨヤキンは土牢から出され、他の王たちに勝る高い位を与えられ、毎日、王と共に食事をすることが出来るようになったのでしょうか。

 詩人はこの日を見ることが出来なかったのでしょうが、ここに、神の真実があります。神がイスラエルのために立てられた計画は、平和の計画であって、災いの計画ではなかったのです。その計画に基づき、将来と希望が与えられたのです(エレミヤ記29章11節)。

 そしてまた、冒頭の、「あなたは、御自ら油を注がれた人に対して激しく怒り、彼を退け、見捨て、あなたの僕への契約をはきし、彼の王冠を地になげうって汚し」(39,40節)という言葉に、ダビデの子イエス・キリストの十字架の苦しみを見ることが出来ます。

 「油を注がれた人」は、メシア=キリストという言葉です。そして、主イエスこそ、イザヤ書53章に預言されている「苦難の僕」です。ダビデの子キリスト・イエスの苦しみのゆえに私たちは癒され、十字架の贖いのゆえに罪赦され、神の子として、天の御国の食卓に共に着くことが出来るようになったのです。

 詩人は、神の契約はなぜ捨てられたのか、神の真実はどこにあるのかと訴えましたが、神は旧い契約に変えて、イエス・キリストの血による新しい契約を、すべての民のために備えてくださいました。

 そのことを知ってか知らずか、第三巻の終わりであるこの詩は、「主をたたえよ、とこしえに。アーメン、アーメン」(53節)と、未だ主イエスの十字架と復活を見てはいないけれども、主の真実を信じて御名をほめ讃えているのです。

 主よ、あなたの慈しみをとこしえに歌います。あなたの真実と慈しみが私たちと共にあり、御名によって私たちは高く上げられます。変えられることのない御言葉を堅く握り、主の真実に信頼して、日々歩ませてください。キリストにある平和が、わが日本に、就中苦しみ痛みの中にある方々にありますように。 アーメン