「歌う者も踊る者も共に言う、『わたしの源はすべてあなたの中にある』と。」 詩編87編7節

 87編は,神の都シオンについての歌です。冒頭の言葉(7節)から、この詩は礼拝で用いられていたようです。というのは、シオンにやって来た巡礼者たちが歓喜の内に歌い踊り、シオンを讃える様子が示されているからです。

 「聖なる山に基を置き、主がヤコブのすべての住まいにまさって愛されるシオンの城門よ」(1,2節)とは、エルサレムの都の城門に呼びかける言葉です。「城門」は複数形で、エルサレムの町を指します(9編15節参照)。つまり、次節冒頭の「神の都よ」と同じ意味ということです。

 「聖なる山」とは、神がお選びになった山ということです。シオンはエブス人の住む町でしたが、ダビデがここを陥れ、城壁を築き、「ダビデの町」としました(サムエル記下5章6節以下、7,9節)。にもかかわらず、都をシオンに据えられたのは主なる神だと言っているのです。

 神の都の栄光について人々は語ると記した後(3節)、4節以下に一人称で語られた言葉が記されていますが、それは、人々が神の都の栄光について語った言葉ではありません。むしろ、神の都の栄光について語る人々に対して、神ご自身が語られた言葉と考える方がよいかも知れません。

 そこには、いくつかの地名が挙げられています。まず、「ラハブ」は、89編11節、ヨブ記26章12節、イザヤ書51章9節などでは、海の龍のような悪しき存在を思わせますが、イザヤ書30章7節には、「エジプトの助けは空しくはかない。それゆえ、わたしはこれを『つながれたラハブ』と呼ぶ」とあり、エジプトのことをラハブと呼んでいることが分かります。
                                                                                                                                                                                                                                                            
 次いで、「バビロン」は南ユダ王国を滅ぼし、その民を捕囚とした敵ですが、アッシリア、ペルシアなど、イスラエルを支配したメソポタミアの強国の代表として呼び出されたのでしょう。

 「わたしを知る者」とはイスラエルのことですから、「エジプトとバビロンの名を、イスラエルの名と共に挙げよう」と言っています。イスラエルは、ダビデ王朝時代、南はエジプト、北はメソポタミア諸国によって絶えず苦しめられて来たのです。それがここで、イスラエルと共に名を挙げると言われるのです。

 それから、「ペリシテ」は地中海沿いのイスラエルの隣国で、イスラエルの民がカナンの地にやって来て以来、度々苦しめられました。続く「ティルス」は、北隣のフェニキヤの町です。また、「クシュ」はエチオピアのことで、当時、南の地の果てのように考えられていたそうです。

 隣国のペリシテやティルス、地の果てのクシュが、「この都で生まれた、と書こう」と言われています。つまり、それらの国民はエルサレム生まれと記されるというのです。「ペリシテ、ティルス、クシュをも」と言われていますので、「ラハブとバビロンをも」ということが前提になります。

 ですから、「いと高き神御自身がこれを固く定められる。主は諸国の民を数え、書き記される、この都で生まれた者、と」(5,6節)と記されているわけです。しかしながら、どうして、諸国の民がエルサレムの都で生まれた、と言われるのでしょうか。

 それは、神が諸国の民を御自分の都に招きたい、神を知るイスラエルの民にように、神を知る者にしたいとお考えになっているわけです。そして、彼らがエルサレムにやってきたとき、神によって新しく生まれたエルサレム生まれとして登録してくださるのです。

 このことについてガラテヤ書3章26~28節に、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分のものもなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」とあります。

 パウロは、キリストの贖いのゆえに、あらゆる隔ての壁が取り除かれ(エフェソ2章14節以下)、一つとされたのだと語っています。それは、パウロがバルナバと共に宣教旅行に赴いて(使徒言行録13章1節以下)、異邦人にも信仰の門が開かれたのを見る(同14章27節など)などして得た確信でしょう。そして、詩人は知らずして、ここに、このキリストの贖いを預言しているわけです。

 先に記したように、冒頭の言葉(7節)に、シオンにやって来た巡礼者たちが、喜びをもって歌い踊り、「わたしの源はすべてあなたの中にある」と語るとあります。「源」とは、「泉、井戸」(アイン)という言葉です。巡礼者たちにとって、シオンが命の泉、喜びや幸いの源だというのです。

 主イエスは、主イエスを信じる人に与えられる恵みを、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4章14節)と言われました。

 そして、「この山(ゲリジム)でもエルサレムでもないところで、父を礼拝するときが来る」(同21節)、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝するときが来る。今がその時である」(同23節)と言われているのも、主イエスとの交わりに入り、その水を飲むことだと示されます。

 主イエスという同じ井戸から命の水を飲ませて頂いたお互いが、歌をもて、踊りをもて、神に喜び感謝するいうことです。主から命の水を飲ませて頂いた人、主の招きに従った人々は、それを本当に知ることが出来るのです。

 渇く思いで主を慕い求め、この喜び、恵みを味わせて頂きましょう(ヨハネ7章37,38節参照)。

 主よ、あなたは私がまだ弱かったとき、罪人であったとき、敵であったときに、私たちのために死んで、贖いの業を成し遂げてくださいました。それによって永遠の都に国籍を持つ者として頂きました。絶えず主を仰ぎ、すべての人と相和し、赦し合い、愛し合い、助け合って歩むことが出来ますように。 アーメン