「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に、自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に、彼らが捕らえられますように。」 詩編59編13節

 詩編59編は、神の救いを願う個人の祈りの詩です。

 「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し、立ち向かう者からはるかに高く置いてください」(2節)と、祈り求めています。詩人は、強力な敵にその命を狙われています(4節)。しかし、敵から狙われる理由が分かりません。「罪もなく過ちもなく、悪事をはたらいたこともない」(4,5節)からです。

 そこで、彼らを罰してくださるように容赦されないようにと願い(6節)、さらに、冒頭の言葉(13節)のとおり、彼らの設けた言葉の罠、呪いや偽りに、自ら捕らえられ、神の怒りによって根絶やしにされるようにと求めます(14節)。

 詩人は、神への信頼の言葉を、「まことに神はわたしの砦の塔。神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を、神はわたしに支配させてくださいます」(10,11節)と言い表します。そして最後に、「力と頼む神よ、あなたにほめ歌をうたいます。神はわたしの砦の塔。慈しみ深いわたしの神よ」(18節)という賛美でこの詩を締めくくります。

 表題に、「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」とありますが(1節)、これは、サムエル記上19章11節の記事を指すものです。ただ、「力ある者がわたしの命を狙った待ち伏せし」(4節)というのは、確かにその状況といってもよいでしょうけれども、、ダビデが義父サウルを、生涯、「敵」と呼び、「悪を行う者」と呼んだことがあるとは思えません。

 また、6節の「あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。目を覚まし、国々を罰してください」という言葉や、12節の「御力が彼らを動揺させ屈服させることを、わたしの民が忘れることのないように」という言葉から、イスラエルの王が民を代表して救いを祈っているように見えます。

 これは、アッシリア帝国が南ユダ王国に攻め込んできたときの様子を思わせます(列王記下18章13節以下)。ユダの町がことごとく占領されて、ヒゼキヤ王はアッシリアに金銀の貢物を贈り、和睦を計りましたが、アッシリアは大軍を差し向けてエルサレムを包囲し、無条件降伏を要求します。

 その際、「ヒゼキヤはお前たちに、主が必ず我々を救い出してくださる。決してこの都がアッシリアの王の手に渡されることはない、と言って、主に依り頼ませようとするが、そうさせてはならない」、「国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか」と言って、ヒゼキヤに背き、主に背かせようとしました。

 8節で、「御覧下さい、彼らの口は剣を吐きます。その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう」と言い、さらに13節で、「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠」、「自分の唱える呪いや欺く言葉の罠」と言っているのは、まさにアッシリアの将軍ラブ・シャケの語った言葉のことではないでしょうか。

 圧倒的な敵の前に、抵抗する術のないユダの王ヒゼキヤは、主に頼り祈るほかありません。そして主は、その祈りに答えられました。預言者イザヤを通して、「アッシリアの王がこの都に入場することはない。わたしはこの都を守り抜いて救う」と約束されました(列王記下19章20節以下、32,34節)。そして、主の御使いがアッシリアの陣営を撃ったので、18万5千の大軍が滅ぼされて、王は自国に逃げ帰り(同35,36節)、エルサレムは守られたのです。

 あらためて、詩人は冒頭の言葉(13節)で、「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に、自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に、彼らが捕らえられますように」と願いました。「人を呪えわば穴二つ」という言葉がありますが、人を呪って殺そうとする者は、自分も呪われるので、葬るべき穴が二つ必要になるという言葉ですね。人を罠にかけようとする人が、自らその罠に陥るわけです。

 確かに、アッシリアの王は、自国の神殿で礼拝をしていたときに、謀反が起きて殺されてしまいました(列王記下19章37節)。アッシリアの神は、謀反から王を守ってはくれなかったのです。

 主イエスは山上の説教において、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁くその裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」と教えられました(マタイ福音書7章1,2節)。私たちが他者を赦し、愛の言葉を語れば、私たちも赦され、優しい言葉を聞くことが出来るでしょう。

 ヤコブ書3章2節に、「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」とあります。そして、「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」と言います(同10節)。しかし、主を賛美しながら、同時に人を呪うことは出来ないでしょう。人を呪う心を持ちながら、心から主への賛美を歌うことは不可能です。

 主を賛美する心で、隣人に対して信仰の言葉、祝福の言葉を語りましょう。詩人が、「わたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場、わたしの力と頼む神」(17,18節)は、まことに恵み深く慈しみに富むお方なのです(111編4節)。

 主よ、御名を崇めます。主に信頼し、信仰による祈りを通して、日々主の恵みに与ることが出来ますように。主の御言葉に土台し、隣人に対して祝福を祈り、信仰による恵みの言葉を語ることが出来ますように。今、困難な状況にある人々の上に、主の恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン