「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に、それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」 詩編56編9節

 56編は、主を信頼する者の「救いを求める祈り」です。その信頼について、4,5節で、「恐れを抱くとき、わたしはあなたに依り頼みます。神の御言葉を賛美します。神により頼めば恐れはありません。肉に過ぎない者が、わたしに何をなしえましょう」といいます。さらに、11,12節で、「神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう」と、リフレインのように繰り返します。

 ここに、「恐れを抱く」と「依り頼む」、「肉に過ぎない者」と「神(主)」の対比があります。つまり、「肉に過ぎない者=人間」が詩人を踏みにじり、虐げ、恐れを抱かせるのです。だから、詩人は人間にではなく、主なる神を逃れ場として、「わたしはあなたに依り頼みます」というのです。

 その信頼は、神の救いの約束への応答です。「神の御言葉を賛美します」(5,11節)というのは、そのためです。「神を呼べば、敵は必ず退き、神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう」(10節)というのも、たとえば、「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いに右の手であなたを支える」(イザヤ書41章10節)のような神の御言葉への応答と考えられます。

 表題に従えば、この詩は、ダビデがサウル王から逃れて、ペリシテ人の町ガトの王アキシュのもとに来て、捕えられたときに詠まれたことになります(サムエル記上21章11節以下)。これは、詩篇34編の表題と共通の出来事です。

 ダビデがサウル王から命を狙われたのは、彼が戦のたびに手柄を立てて、イスラエルの民の間に人気が高まるのを妬まれたからです(サム上18章8節)。サウルは、自分の王位が危うくなる前にダビデを亡き者にしようと考えたわけです。しかし、ダビデはイスラエルの兵士であり、サウルの命により、イスラエルのために命懸けで戦っていました。しかも、サウルの娘婿でもあります(同12節以下、27節)。つまり、ダビデは謂れのない苦しみを受けていたわけです。

 その苦しみの果て、なんと彼は、敵国の王の下に身を寄せようとしています。サウル王の力の及ぶところでは、安らぐことが出来なかったのです。けれども、当然のことながら、ダビデの名は敵に知れ渡っており、彼は捕らえられてアキシュ王の下に引き出されました。絶体絶命の時、ダビデはそこで気が狂ってしまったように見せかけて、何とか難を逃れます。

 しかし、自国には戻れず、安易に他国に身を寄せることも適わず、これからどうすればよいのでしょうか。実に、途方に暮れる事態です。そのようなダビデの心境が、よくこの詩に現れているように思います。特に、神に依り頼む信仰を表明してはいるのですが(4,5節)、なお苦しい状態が続いています。「わたしの言葉はいつも苦痛となります」というとおりです(6節)。

 そこで、冒頭の言葉(9節)のとおり、「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです」と訴え、さらに、「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください」と祈っています。革袋は、その中に水などを蓄えておくための水筒であり、荒れ野を旅するときの必需品です。それに詩人の涙を蓄えてくださいと求めているのですから、神にこの苦しみ、悲しみを味わってみてくださいと求めているようです。

 涙を一粒残らず蓄えるということで、神に、すべての苦しみを知っていて欲しい、覚えていてほしいという願いが表されていると考えることが出来ます。それで、「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか」と訴えているわけでしょう。

 ここで、「嘆き」は、創世記4章16節で、「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ」と記されている「ノド(さすらい)」という言葉です。口語訳は、「あなたはわたしのさすらいを数えられました」と訳しています。「さすらい」には「嘆き」がつきものですし、後半の「涙」との関連で、「嘆き」という訳語になったのでしょう。

 そして、荒れ野の旅の必需品の「革袋」も、つづりは違いますが、「ノド」と発音します。「さすらい」と「革袋」の語呂合わせで、神に自分の苦境を訴え、助けを求めているわけです。

 このダビデの祈りは、時代を超えて聞き届けられました。神の独り子キリストが、ダビデの子孫としてお生まれになったのです。彼は悲しみの人で、多くの痛みを負い、病いを知っています(イザヤ書53章3節)。罪を犯されませんでしたが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われました(ヘブライ書4章15節)。すべての人の罪を背負い、十字架で身代わりに死んでくださいました。その打たれた傷によって、私たちは癒されたのです(同53章5節、第一ペトロ書2章24節)。

 神は、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(ヘブライ書13章5節)と言われます。どんな時にも共にいて、私たちの苦しみ、悲しみを受け止め、慰め励まし、立ち上がる力をお与え下さいます。主イエスを信じ、その御言葉を信じて、命の光の中、神の御前を歩ませていただきましょう。

 主よ、私たちを憐れんでください。私たちはあなたに依り頼みます。あなたの御言葉を賛美します。あなたが私たちの味方となってくださるなら、私たちには恐れはありません。あなたが常に私たちと共にいて、命の光の中、御前を歩ませてくださるからです。御名が崇められますように。 アーメン