「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。」 詩編52編10節

 52編は、まず悪事を働く者の破滅を語り(3~6節)、神が悪人を滅ぼされるのを見て神を畏れることを学び(7~9節)、神への信頼を告白し(10節)、感謝と賛美で閉じられます(11節)。

 表題に、「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、『ダビデがアヒメレクの家に来た』と告げたとき」(2節)とあります。これは、サウル王に命を狙われて逃げ出したダビデが、その途中、ノブの祭司アヒメレクのところへ行き、パンと剣を求めたという、サムエル記上21~22章の出来事を示しています。

 そのとき、アヒメレクのところに、サウルの家臣でエドム人のドエグがいました。ダビデがそこを去った後、ドエグはサウル王に、ダビデがアヒメレクのところに来て、食料と剣を受け取るのを見た、と報告しました。サウル王は、アヒメレクとその家の者を死罪とし、ドエグに討たせました。アヒメレクの息子アビアタル一人だけがただ一人、その難を逃れることが出来、ダビデにそのことを知らせたのです。

 3節の「力ある者」(ハ・ギッボール)とは、定冠詞付きの「権力者」という言葉ですから、この詩の編集者は、サウル王のことを念頭に置いているようです。ただ、6節の「人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む」という言葉から、ドエグのことを皮肉を込めて、「力ある者」と呼んでいると考えたのかも知れません。

 彼は悪を好み(5,6節)、神を頼まず、莫大な富に信頼する者です(9節)。つまり、人間の能力や資産を自分が生きる基盤としているのです。そして、その権力で社会秩序を破壊し、善を愛して正しく歩もうとする者、神を畏れ、依り頼む者を苦しめていたのでしょう。 
 
 7節で、「神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。お前を天幕から引き抜き、命ある者の地から根こそぎにされる」と詩人は語っており、それは、最後に正義が勝つという宣言のようですが、現実はそのようには見えません。むしろ、悪の権力に圧倒されそうになっている者の、やせ我慢のようにさえ聞こえます。

 王の絶対的な力を背景として、破滅をもたらす「力ある者」の前に、根こそぎにされそうになっているのは、むしろ詩人の方なのです。9節に、「見よ、この男は神を力と頼まず、自分の莫大な富に依り頼み、自分を滅ぼす者を力と頼んでいた」とあり、神に従う者は神を畏れて、このような者を笑うというのですが、本当に笑えるでしょうか。
 
 確かに、富が命を保証しないことは知っています。けれども、私たちは本気で笑えるでしょうか。私は「莫大な富」など持ち合わせてはいませんが、しかし、銀行の預金残高を全く気にしないではいられません。残高がゼロになっても、主に依り頼んでいるから、何の心配もないとは言えません。

 主イエスが、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだやさしい」と言われたとき(マタイ福音書19章24節)、弟子たちは、「それでは、だれが救われるのだろうか」(同25節)と反応しています。これは、自分の持ち物をすべて捨てて、永遠の命を求めるという人など、一人もいないということを表しています。

 誰も、自分の持ち物や行いをすべて主の御前に持ち出して、自分には永遠の命を得る資格がある、その権利があるとは言えないということです。永遠の命は、神の深い憐れみにより、恵みとして与えられるのです。パウロが、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェソ書2章8節)と記しているのは、そのことです。

 だから詩人は、冒頭の言葉(10節)のとおり、「わたしは生い茂るオリーブの木、神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます」というのです。オリーブの木が生い茂り、豊かに実を結ぶことが出来るのは、枝振りが立派だからではなく、日の光と水、そして土と養分があるからです。そこから離れて生きることは出来ません。詩人にとってそれは、神の家にとどまること、神の慈しみに依り頼むことなのです。

 ダビデが王として立てられ、どのような苦難からも守られたのは、神の慈しみがあったからです。もっとも、ダビデの時代に「神の家(=神殿)」はまだ存在していませんでした。彼の死後、息子ソロモンによって、神殿建築がなされたのです(列王記上6章)。ダビデにとっての「神の家」とは、神を礼拝するところを指していると考えたらよいでしょう。そこに主はおいでになるからです。ダビデの心には、罪赦され、贖われた者としての感謝と喜びがありました(32編1,2節)。

 詩人が神の家に留まることが出来るのは、神の慈しみのゆえであることを悟り、神の愛に信頼し、主の御名に希望を置いているからです(11節)。主こそ、希望の源であり、平和の源、救い主であられます(ローマ書15章13,33節)。

 私たちも恵みに主に依り頼み、その御名を呼び、希望と平安に満たされ、主に従う道をまっすぐに歩ませていただきましょう。
 
 主よ、私たちは御子キリストの贖いにより、罪赦され、神の子とされ、永遠の命に与りました。それは一方的な恵みです。自分の行いを御前に誇ることの出来る者はいません。ただ感謝と賛美をおささげするのみです。私たちの唇の実、賛美のいけにえをお受けください。いよいよ御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン