「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」 詩編51編12,13節

 この詩は、受難週に読まれる七つの悔い改めの詩(6,32,38,51,102,130,143編)の一つです。

 この詩は、「神よ、わたしを憐れんでください」(3節)の願いで始まり、5節以下、その願いの理由を述べ、「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください」(9節)から願いが再開されて、15節に、神の道を証しする誓いを立て、続く16,17節は、主を賛美するために、救い出してくれるようにと願っています。18,19節はその動機で、シオンの再建といけにえが再び受け入れられるという希望をもって(20,21節)閉じられます。

 表題に、「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」と記されています(2節)。これは、サムエル記下11~12章に記されている出来事です。6節と、サムエル記下11章27節、12章13節の言葉上のつながりから、そのような解釈が生まれたのでしょう。

 イスラエルの王ダビデが、自分の部下で勇士のヘト人ウリヤ(同23章39節参照)の妻バト・シェバと密かに関係を持ち、それで懐妊したことを知ると、それを誤魔化すためにあれこれと策を弄し、最後は戦死に見せかけて、夫ウリヤを殺してしまいます。それから、バト・シェバを自分の妻として迎えたのです。それは勿論、神の御心に適うことではありません。そこで神はダビデのもとに、預言者ナタンを遣わしました。

 ナタンは二人の男の話をします。一人は裕福、一人は貧しい男です。貧しい男は、唯一の財産である一匹の雌の小羊を娘のように可愛がっていました。裕福な男の家に来客があり、自分の羊や牛を屠るのを惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて客に振る舞ったという話です。それを聞いたダビデは激怒し、そんな無慈悲なことをした男は死罪だと、ナタンに言います。ナタンが、「その男はあなただ」と告げると、その言葉を聞いたダビデは、「わたしは主に罪を犯した」と答えました。

 ダビデの振る舞いを見て、あらためて私たちの罪の問題を考えさせられます。それは、神の御前に出るまで、私たちは自分の罪の本質が分らないということです。ダビデは、ナタンの話の中の、裕福な男の無慈悲な振る舞いに激怒しました。しかし、ナタンに指摘されるまでは、それが自分のことだとは気づかなかったのです。

 部下の妻を取り上げ、そのために部下を殺したのは、自分の姦淫の罪が露呈することを恐れたためにやむを得ずしたことであり、それが無慈悲な行為だとは思っていなかったわけです。あるいは、一国の王として、自分がしたいように振る舞うのは当然だとさえ、考えていたのかも知れません。それほど極端ではなくても、私たちは自分の行為を自分の理屈で正当化して、罪を罪としないところがあると告白せざるを得ません。

 この詩の中で、ダビデは神の憐れみを求め、罪から清められることを願いました(3,4,9,11節)。そして、冒頭の言葉(12節)のとおり、「清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(12節)と求めます。

 悔い改めといえば、「ごめんなさい。このような悪事は、もう二度としません。これからは、このようにします」ということが語られていそうですが、そういう言葉は、どこにもありません。ダビデは今、自分の罪深さに圧倒されているのです。6節で、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し」というのは、他所では犯していないということではなく、自分の罪はすべて、神に対して犯したものだという告白なのです。

 7節の、「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」というのは、「原罪」ともいうべき罪の性質を自分のうちに見出したという表現でしょうか。パウロが、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ書7章19,24節)と語っているのも、同じ消息です。

 このような罪の認識に自分の無力を思い知らされた詩人は、もし自分が生きる道があるとすれば、それは、虫が良すぎるけれども、勝手が過ぎるけれども、神の憐れみにすがり、「清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて」いただくほかはないと悟ったのです。

 新しい心、新しい霊を授けるというのは、エレミヤ書24章7節、31章33節、32章39,40節、エゼキエル書36章25節以下にある約束を成就するようにという願いでしょう。「清い心」とは、神に背き、敵対する心が清められることにより、神に向かって開かれ、その導きに従う心、思いを示します。そして、「確かな霊」は、神に向かって整えられ、確かなものとされた思い、意志を示しているようです。 

 授けられた清い心、新しく確かな霊は、詩人に救いの喜びを味わわせ(14節)、恵みの御業を喜び歌わせます(16,17節)。それは、神の前に打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心です(19節)。主イエスは、私たちの罪のために刺し貫かれ、打ち砕かれました(イザヤ書53章5節)。だから、清い心、打ち砕かれた霊とは、主イエスを信じ、受け入れた人の心をいうのです。この詩編が受難週に読まれるのは、そのことを確認し続けるためなのです。

 主の福音の光に照らされて自分の罪を認め、主イエスを信じ、それを公に言い表して、心の内に主イエスの霊を授けていただきましょう。 

 主よ、この世には様々な悪が満ちています。そして、私もそれと無縁ではありません。罪が私を圧倒しています。私を洗ってください。私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。主イエスが私の内にあって生きておられると、告白し続けさせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心を行う者となりますように。 アーメン