「一つのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」 詩編27編4節

 この詩は、語調やその内容から、6節までと7節以下の二つに分けることが出来ます。前半には神への信頼の賛美、後半には苦難の中から神の救いを求める嘆きの祈りが記されています。ですから、もともとはそれぞれに独立していた二つの詩が、たとえば4節と13節の表現が似通っているというような理由で、一つにまとめられるようになったのではないかと考える注解者もいます。

 しかしながら、主なる神への確かな信頼があればこそ、あらゆる苦難のとき、不安や恐れの中で神を呼び、助けを願い求める祈りが出来るというものではないかとも思われます。そして、いくつものモティーフが前後を一つに結べ合わせています。1,9節の「救い」(イェイシャー)、2,12節の「敵」(ツァル)、3,8,14節の「心」(レーブ)、3,12節の「立つ(挑む)」(クーム)、4,8節の「求める(尋ね求める)」(バーカシュ)、4,13節の「命」(ハイ)などです。

 かくて、この詩は、主を信頼することと、主に祈り願うことが、密接に結びついているものであることを、私たちに教えます。主を信頼するからこそ、主に救いを求めて祈り、主に祈ることを通して、主への信仰を新たにするのです。

 詩人は、「主はわたしの光、わたしの救い」といいます(1節)。主を「わたしの光」(オーリー)と呼ぶのは、聖書中ここだけですが、神を光とする比喩は、18編29節、36編10節などにもあります。光は闇を照らし、道を見出します。イスラエルの民は、葦の海の奇跡を経験した後、「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」(出エジプト記15章2節)と歌いました。

 詩人をさいなむ敵の攻撃の中で(2,3節)、冒頭の言葉(4節)のとおり、詩人は、ただ一つの願いをもって神の前に出ています。それは、「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ臨んで喜びを得、その宮で朝を迎えること」です。それは、「命の砦」(1節)なる主のもとに逃れ場を得ることで、神との交わりを通して、苦しみから解放され、喜びに満たされることでした。詩人にとって、神の宮において主を礼拝すること以上に大切なことはないということでしょう。

 そして、その願いは、主の「わたしの顔を尋ね求めよ」という命令に従うことでした(8節)。神が御顔を隠しておられるように思われる困難な状況の中で(9,10節)、主を尋ね求めるよう命じられ、それを行うことにより、主の恵みを繰り返し味わい(13節)、心強められる経験に導かれます(14節)。

 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と、十戒の第一条に規定されています(出エジプト記20章3節)。また、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章4,5節)という命令が、旧約律法の中で最も重要な戒めであると、主イエスが言われました(マタイ福音書22章37,38節)。

 苦しみのとき、自分の力ではどうにもならない困難に道が塞がれているとき、まことの神、ただ一人の主に依り頼むことが出来ることは、大きな喜び、また平安です。

 「主を仰ぎ望んで喜びを得」(4節)を、口語訳では「主のうるわしきを見」、新改訳は「主の麗しさを仰ぎ見」と訳しています。主を仰ぎ望む喜びは、主の麗しさ、主の慈愛を知ることで、詩人は、心から神との交わりを楽しみ喜ぶことを期待し、待ち望んでいるわけです。

 「仰ぎ望む」(ハーザー)という言葉は、「見る」という意味のほかに、「知覚する、予見する、預言する」などという意味があります。つまり、預言者が聖霊に満たされて見るということです。霊の目が開かれて見るといえばよいでしょうか。

 詩人は、自分の置かれている今の状況が如何にあれ、そこで霊の目が開かれて主を仰ぎ、主と交わるあまりの素晴らしさ、その喜びを知ったのです。そして今、それを求めているということは、一度そういう体験をすればもうよいというのではなく、いつでもどこでも、主と親しく交わりたい、主を仰ぎ見みたい、そのことを通してまことの喜びを得たいと考えているわけです。パウロが、聖霊に満たされなさい、満たされ続けなさいと言っているのは、そのことでしょう(エフェソ書5章18節参照)。

 「主の家」とは、神殿を指す言葉です。そこに宿りたいとは、神殿に住みたいということになります。主イエスが少年時代、エルサレム神殿に行かれたことがあります(ルカ福音書2章41節以下)。そのときの両親とのやり取りで主イエスは、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」と言われました(同49節)。

 「自分の父の家にいる」(エン・トイス・パトゥロス・ムー)と訳されていますが、原文には「家」に当たる言葉はありません。しかも、想定されているのは複数形です。主イエスにとっての「父の家」とは、エルサレム神殿には限らないということです。つまり、神のおられるところはどこでも「父の家」であり、「父の家にいるのは当たり前」とは、神がいつも自分と一緒にいてくださると言われていることになります。

 ですから、「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えること」を願い求める詩人の信仰は、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(ヨハネ福音書4章23節)と主イエスが言われた、まことの礼拝者の信仰であると言ってよいでしょう。

 主よ、どうか私たちを聖霊で満たしてください。常に霊の目が開かれて主を仰ぎ望み、霊の耳が開かれて御言葉に耳を傾けることが出来ますように。主を慕い求めて御前に進み、絶えず主との親しい交わりの内におらせていただくことが出来ますように。 アーメン