「主よ、あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。」 詩編26編8節

 1,11節に、「わたしは完全な道を歩く」という表現が出て来ます。ここで語られている「完全」(トーム)という言葉には、完全無欠 integrity という意味もありますが、無実とか十分、一杯とも訳されます。

 2節以下、主に従って歩んで来たことを確認してほしいと主に願い、6節で「わたしは手を洗って潔白を示し」と、自分の無実を神が証明してくださることを求めています。詩人は、不当な裁判で苦しめられているのかも知れません。だから、1節冒頭に、「主よ、あなたの裁きを望みます」と訴えているのでしょう。

 また、「完全な」を「十分 fullness 」、つまり、神の恵みが満たされている状態と捉えて読み替えれば、わたしは神の恵み充満の道を歩くという言葉になります。それは、神が詩人の心と思いを完全に満たしていることを表しています。わたしは神の恵みに満たされて歩くといってもよいでしょう。

 パウロが、「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ書15章13節)と、祝福の祈りを記しています。

 また、「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(エフェソ書3章18,19節)と、祈りの言葉を記しています。

 いずれも、神の恵みによってそのうちが満たされるように、さらには神ご自身で満ちあふれさせてくださるようにと祈り求めていますが、ここに、私たちの信仰の目標が示されます。

 そして、心と思いが恵みに満たされているということは、神様に自分の心と思いを明け渡したということ、自分の弱さ、欠点も包まず明らかにして、ありのまま神にささげたということです。であれば、「わたしは完全な道を歩く」という言葉は、完全無欠な人間として生きるというようなことではありません。そうではなく、詩人が自分自身を主なる神に全くささげて生きていることを表している言葉だと解釈することが出来ます。

 その完全な献身から、主への信頼が生まれます。1節に、「主に信頼して、よろめいたことはありません」と記されているとおりです。それは、自分がしっかり立っていた、ということではありません。3節に、「あなたの慈しみはわたしの目の前にあり、あなたのまことに従って歩み続けています」と言っています。

 「まこと」(エメト)は忠実、あるいは信頼性とも訳されます。神が忠実に守ってくださる、神は信頼出来るということです。神の真実に支えられ、信頼すべき神に守られて歩んでいるということです。

 現実には、悪が詩人をよろめかせ、また、私たちをよろめかせます。5節に「悪事を謀る者の集い」という言葉があります。この「集い」(カーハール)という言葉を、七十人訳聖書(ギリシア語訳旧約聖書)は、「エクレシア」と訳しています。エクレシアは、新約聖書で「教会」と訳される言葉です。もともと、集い、集会、会議を意味する言葉で、議会と訳されることもあります。

 その「集い」に集まる者の謀る悪事について、10節に、「彼らの手は汚れた行いに慣れ、その右の手には奪った物が満ちています」と記されています。「奪った物」と言えば、力づくで取ったという印象になりますが、原語は「賄賂、まいない」(ショーハド)という言葉が使われています。議会の人間が賄賂やまいないをとって政治を曲げるとは、ダビデの時代も今も、人間の悪の性質というものは変わらないのかという思いになります。

 詩人はそれを憎むと言っていますが、決してよろめかなかったと言い切れるでしょうか。むしろ、実際には、袖の下に心惑わされ、彼らの仲間に加わろうという誘惑が絶えずあったのではないかと思います。だからこそ、「わたしは完全な道を歩きます」と語り、「わたしを憐れみ、贖ってください」と祈り願うのです(11節)。

 神はその信仰と祈りに答え、欠点だらけ、失敗だらけの私たちを赦し、憐れみ、愛してくださり、キリストの贖いによって義と認め、「あなたは潔白だ」と言ってくださるのです。そこに、神の慈しみとまことがあります(3節)。

 冒頭の言葉(8節)で、この詩人は、神殿を慕っています。「あなた(主)のいます家」とは、神殿のことです。そして、詩人は「主のいます家」を、「主の栄光の宿るところ」と言い換えています。「宿るところ」は、「幕屋」(ミシュカン)という言葉です。

 出エジプト記40章34節に、「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」と記されています。幕屋は、エジプトを脱出した民が荒れ野を旅する間、神を礼拝するために設けられた移動用神殿です(同25章8節)。神の幕屋が完成したとき、神がその幕屋に臨まれたことが、そこに記されています。雲は神の臨在のしるしです。神の臨在が現れているところに主の栄光が満ちたということですから、主の栄光を神の臨在と解釈することも出来ます。

 つまり、神の栄光とは、人間が見物することの出来る光景や現象などではなく、神の臨在されるところで神を礼拝する恵みを味わうことと考えられます。この詩人は、神殿にやって来て、主を礼拝する喜び、神の臨在の恵みを味わうために、主の神殿、主の栄光の宿る幕屋を慕い求めると言っているのです。

 そして、慈しみとまことを惜しみなく注ぎ与えてくださる神への感謝の思いが、ますます主の家を慕わしく思わせているのです。主は今、私たち主イエスを信じる者の心を住まいとし、そこに神の栄光を現そうとしておられます(第一コリント書6章19,20節)。主の御顔を慕い求め、慈しみ豊かな御言葉に耳を傾け、そのまことに従って歩ませていただきましょう。

 主よ、あなたの慈しみは私の目の前にあり、あなたのまことに従って歩みます。主よ、あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところを私は慕います。私を憐れみ、贖ってください。その慈しみ豊かな御言葉に耳を傾け、主に信頼して御名を誉め讃えつつ歩みます。 アーメン