「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。」 詩編16編8節

 表題に「ミクタム。ダビデの詩」とありますが、原文は、「ダビデのミクタム」という言葉です。「ミクタム」の意味は不明です。70人訳は「碑文」、ルター訳は、ketem(黄金)と関係させて「黄金の宝」、その他、アッカド語のk-t-m「覆う」と関連づけて「隠れた祈り」、「贖罪のための奉納文」とするなど、色々な解釈がなされています。それは、この詩が人々に大きな影響を与えて来たというしるしでしょう。

 詩人は、最初に「神よ、守ってください」(1節)と言っています。詩人を悩ませ、苦しめているのは、「ほかの神の後を追う者」たちです(4節)。彼らは3節では、「この地の聖なる人々、わたしの愛する尊い人々」と呼ばれています。これは、祭司のことではないかと思われます。

 主に仕える祭司が、他の神の後を追うとはどうしたことでしょうか。ただ、「レビ人は、イスラエルが迷ったとき、わたしから離れて偶像に従い迷ったので、その罪を負わねばならない」(エゼキエル44章10節)という言葉もあります。理由や背景はどうであれ、こうして祭司、レビ人らが主なる神から離れ、異教の神々に仕えたことが、イスラエルの民を苦しませ、ついに、国を滅ぼす結果となったのです。

 詩人は、「守ってください」という祈りの言葉に続いて、「あなたを避けどころとするわたしを」と、神への信頼の言葉を口にします。原文は、「なぜなら、わたしはあなたに身を避けますので」と、詩人の神への信頼を根拠として、守ってくださいと願った言葉遣いになっています。

 その信頼=信仰を、「あなたはわたしの主(アドーン)」(2節)と言い表します。それは、「わたしはあなたの僕(エベド)」と告白していることになります。出エジプト記21章1節以下に「奴隷について」の規定がありますが、そこに、生涯、主人を離れて「自由の身になる意志はない」(5節)と明言する場合の規定もあります。詩人の信頼の言は、生涯、主に仕えると喜びをもって告げるものです。主を離れて、詩人の幸いはないという言葉にも、それが表わされています。

 そして、その関係は、5節で、「主はわたしに与えられた分、わたしの杯」と言い換えられます。イスラエル12部族の中で、レビ人は嗣業の地の分配を受けませんでした。ヨシュア記13章33節には、「彼らの嗣業はイスラエルの神、主ご自身である」と記されています。レビ人は、イスラエルの神、主のために働き、主から生活の糧を受けるのです。詩人は、主なる神に信頼し、神から命の糧を受けており、「杯」に示されるように、神との親しい交わりに与ることを喜びとしています。

 どれほどに神を信頼しているのかということを、冒頭の言葉(8節)において、「わたしは絶えず神に相対しています」という言葉で言い表しています。詩人は、どんな時にも目の前に神を見ているわけです。7節に、「わたしは主をたたえます」と言っていることから、詩人は、賛美を通して心の中心に主を迎え、絶えずその臨在を覚えているのです。

 「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます」(7節)という言葉で、詩人が常に励ましや諭しを必要としていることが分かります。また、自分の心に光がないことを「夜」と表現しているとも考えられます。そういう現実にあって、だからこそ、神を仰ぎ、賛美によって神に心を向けるのです。そしてその都度、神の励ましや諭しを受ける恵みを味わってきたのです。

 どういう現実を味わっていても、どのような環境にあっても、そこが神の用意された「麗しい地」と受け止め、「輝かしい嗣業を受けた」と信じて(6節)、神をたたえているのです。そのとき、「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」(8節)と告白する恵みを味わうことが出来るわけです。ここに、信仰の醍醐味があります。

 ここで、「右」、あるいは「右手」には、特別な意味があります。英語でも「右(right)」には、「権利、正義、正常」という意味があります。聖書では、右、右手は力の象徴です(詩編45編5節、ヨブ記40章14節など)。ですから、攻撃を受け止める側になり(詩編91編7節、ヨブ記30章12節など)、訴える者が立つ側になります(ゼカリヤ書3章1節)。

 一方、弁護者、救助者が立つ側でもあります(詩編109編31節、121編5節など)。「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがない」とは、このことです。そして、威厳と光栄の座でもありました(詩編45編10節、列王記上2章19節など)。御子キリストが天に引き上げられて右の座に着くとは、これを意味しています(詩編110編1節、ヘブライ書10章12節など)。

 神の右に、威厳と栄光をもって座に着いておられる主イエスが、私たちの右側で私たちのために執り成し、弁護し、助けて下さるから、その恵みを味わうことが出来るから、「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます」(11節)と、心から主をほめたたえているわけです。

 日毎に主を仰いで御言葉に耳を傾け、信仰により心から主を賛美しましょう。

 主よ、あなたを避けどころとします。弱い私たちをお守りください。御言葉を与えてください。あなたは絶えず私たちに最善のことをしてくださいます。その慈しみはとこしえに絶えることがありません。主の御名はほむべきかな。我が国に、全世界に、キリストの平和がありますように。 アーメン