「主よ、どのような人があなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことが出来るのでしょうか。」 詩編15編1節

 15編は、神殿中庭に入る際の礼拝式文として用いられるために作られたものではないかと考えられます。

 詩人は冒頭の言葉(1節)のとおり、「主よ、どのような人があなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか」という問いを発しています。ここで、「あなたの幕屋」とは、「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」(出エジプト記25章8,9節)とお命じになって、神がイスラエルの民に造らせた移動用聖所=神の幕屋(テント)のことです。

 また、「聖なる山」については、詩編2編6節にも「聖なる山シオン」という表現が出て来ており、それは、ダビデが都を定めたエルサレムのことを指しています。そしてそこに、ダビデの子ソロモンが壮麗な神殿を建てました。つまり、「あなたの幕屋」も「聖なる山」も、主なる神を礼拝する場所を指しているわけです。ということは、1節の言葉は、どのような人が、主なる神を礼拝するのにふさわしいのでしょうか、と尋ねていることになります。

 そして、2節以下にその問いの答えが記されています。「それは、完全な道を歩き、①正しいことを行う人。②心には真実の言葉があり、③舌には中傷をもたない人。④友に災いをもたらさず、⑤親しい人を嘲らない人。⑥主の目にかなわないものは退け、⑦主を畏れる人を尊び、⑧悪事をしないとの誓いを守る人。⑨金を貸しても利息を取らず、⑩賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人」です(2~5節)。

 すなわち、「完全な道を歩き」に続けて、10の条件が語られています。あたかも、モーセに授けられた十戒のようです。そして、5節後半に、「これらのことを守る人は、とこしえに揺らぐことがないでしょう」と結ばれています。

 けれども、「完全な道を歩く」とことが、以下の条件を完璧に守れということであるならば、それを文字通り実行出来る人がいるでしょうか。残念ながら、人は不完全な存在です。完全なお方は、主なる神ただお一人だけです。そしてまた、これを守りさえすれば、主なる神を礼拝する権利、主と親しく交わる資格を手に入れることが出来るというものでもないでしょう。

 イスラエルの民が幕屋を作り、ソロモン王が神殿を建てたのは、彼らがその権利や資格を有していたからではありません。主ご自身がイスラエルの民の内に住まおうとされたからです(出エジプト記25章8,9節、列王記上6章11~14節)。

 さらに言うならば、これを実行可能にするのは、礼拝を行う権利や資格を手に入れようとする人間の意志などではありません。私たちと共に住まおうとされる主の力により、霊的な導きと助けが与えられて初めて可能になるのです。つまり、完全であられる主なる神に導かれ、共に歩ませて頂くということです。

 今日、私たちの「体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり」(第一コリント書6章19節)、また、「わたしたちは生ける神の神殿なのです」(第二コリント書6章16節)と言われています。私たちの体とは、教会のことであり、私たちがキリストの名によって集まっている集まりを指しています。

 礼拝や祈り会など、教会の集会の中に、また、信徒二人が心を合わせて祈ろうとしているところに、主イエスは共におられ(マタイ18章20節)、そこに聖霊が宿られるのです。私たちはまず、このことに畏れを抱かなければなりません。集会を主催しておられるのは神であり、私たちは神によって集められたものであると宣言されているようなものだからです。

 私たちと共におられ、私たちの間に宿られる神の御顔を慕い求め、その御言葉に耳を傾けましょう。神は、被造物に過ぎない私たち人間、しかも、生まれながら神の怒りを受けなければならない罪深い存在に対して、「これらのことを守る人は、とこしえに揺らぐことがない」ようにしてくださる(5節)と約束されました。

 これは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実がいつまでも残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ福音書15章16節)と主イエスが言われているのと同様のことでしょう。ここに、神の深い愛と計画が示されています。

 主の導きに従ってまことの礼拝をささげ、恵みを受けて出て行き、豊かな実を結ぶことが出来るように、祈りつつ励んで参りましょう。

 主よ、あなたの深い憐れみにより、慈愛の御顔を絶えず拝することが出来ますように。御言葉を慕い求めて朝ごとに御前に進ませて下さい。御言葉を悟る光を与えてください。御霊の力を受けて、神の愛と恵みを多くの人に証しすることが出来ますように。 アーメン