「神を知らぬ者は心に言う。『神などはない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。」 詩編14編1節

 表題に、「ダビデの詩」とありますが、編集者がこれをダビデの詩として収集したということです。編集者は、ダビデがいつこの詩を詠んだと考えているのでしょう。サウル王に追い回されているときでしょうか(サムエル記上18章以下)。あるいは、息子アブサロムに背かれたときでしょうか(サムエル記下15章以下)。

 冒頭の言葉(1節)で、「神を知らぬ者」と訳されているのは、「愚かな、無分別な」(ナーバール)という言葉で、口語訳、新改訳は、「愚かな者」と訳しています。サムエル記上25章に、頑固で行状の悪いならず者のナバルという人物が登場して来ますが、それが本名というより、その人物の言葉や振る舞いが愚かで無分別なものであるということを、その名で言い表しているわけです。

 ただ、ここでいう「愚かさ」とは、知能の低さや判断の鈍さなどというものではありません。「神などない」という人の中に、知能の高い人、賢い人が少なからずいるでしょう。むしろ彼らにとって、目に見えず、手で触れることもできない神に信頼するのは、愚かなことだと思えるでしょう。 

 箴言1章7節に、「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」という言葉があります。ですから、聖書の信仰では、何が愚かといって神を畏れないこと、神に従わないこと以上に愚かなことはないと考えられているわけです。そこで新共同訳では、「ナーバール」を「神を知らぬ者」と意訳しているのでしょう。

 また、神はいると考えること、その存在を認めることが、神を知っていることにはなりません。すなわち、神を知ることとは、学問的、論理的に理解することではありません。人格的な信頼関係に入ることです。人格的な信頼関係とは、神の御言葉に耳を傾け、その導きに喜びをもって従うことです。

 ですから、神の存在を信じ、認めてはいても、その御言葉に耳を傾けようとせず、御言葉を聞いてもそれに従おうとしないのなら、それは結局、神を知らないに等しいことであり、愚かにも心の中で「神などはない」と言っているのと変わりはないということです。

 パウロが、大切なのは、バプテスマ(洗礼)を受けたかどうか、既にクリスチャンであるかどうかということではなく、常に愛によって信仰が働いているか、神の御言葉に従い、御心を求めて歩んでいるかということだと言いました(ガラテヤ書5章6節参照)。ヨハネも、「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」と語っています(第一ヨハネ書2章4節)。

 そして、「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(同3章23節)と言います。神を知る人、神との人格的な信頼関係に生きる人は、隣人との関係を大切にします。そうしない人は、神との信頼関係にも生きていない人であり、その人は偽り者で、その内に真理はないと言っているのです。

 詩人は、「神などいない」という言葉に続き、「善を行う者はいない」といい、それを3節で繰り返しています。この「善」(トーブ)についても、単に道徳的に、「善を行わない」と言っているのではなく、「目覚めた人、神を求める人はいないか」と探される主に応えず、神に背き去っていることを指して、善を行う者は一人もいないと言っているようです。

 4節の「悪を行う者」は、「主を呼び求めることをしない者」と言い換えられ、そして、「神は従う人々の群れにいます。貧しい人の計らいをおまえたちが挫折させても、主は必ず、避けどころとなってくださる」(5,6節)と言います。貧しく弱い者たちを抑圧すること、彼らが神に頼るのを愚かと笑うこと、それを「悪」として、神が彼らに報いられるというのです(5節参照)。 

 その時彼らは、神が貧しさ弱さの中にいて主に従い、主を避けどころとする人々と共におられることを知るでしょう。そして、主を避けどころとすることこそ、彼らの力であり、主に頼ることこそ、真の賢さであることを、畏れをもって悟るでしょう。 

 逆に、たとい人間の企みによって苦しめられることがあっても、その営みが破壊されるようなことがあっても、主の御名を呼び求めるとき、主が避けどころとなられ、救いの道を開いてくださるのです。

 そしてこの詩は、「イスラエルの救いがシオンから起こるように」(7節)という祈りで閉じられます。そして、目を未来へと転じ、「主がご自分の民、捕らわれ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」と、主が詩人の祈りに応えてくださること、それで救いを味わうことになると信じているようです。 

 イスラエルは繰り返し苦難を経験して来ました。最大の苦難は、バビロン捕囚でしょう。けれども、彼らはやがて解放のときを迎え、エルサレムの神殿と城壁を再建する導きを得ます(エズラ記、ネヘミヤ記参照)。新約時代、紀元70年にローマ帝国によって首都が陥落、ユダヤ人は亡国の民となりましたが、不思議な導きで1948年5月にイスラエルが再建されました。

 その後のイスラエルとパレスティナの争いを思うと、すべてを手放しで喜ぶわけにはいきませんが、しかし、悲しみを喜びに変えてくださり、憂える民に感謝の歌を与えてくださる神がおられるのです。

 私たちも、共におられ、心の内に宿っておられる十字架の主に信頼し、神と人に誠実な愛をもって仕える者にならせて頂きましょう。

 主よ、私たちは深い憐れみによって神の子とされました。恵みに慣れ、当然のことのように勘違いし、御言葉に背いて罪を犯す者とならないように、神を知らぬ者のように振舞うことがありませんように。聖霊によって、絶えず私たちの心に神の愛を注いでください。苦難に押しつぶされず、主を避けどころとして、希望に生きることができますように。 アーメン