「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。」 詩編10編12節

 1節に、「主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」とあります。「苦難」(バッツァーラー)は、「飢饉、貧困」という意味の言葉が用いられています。旱魃などによって実りがなく、苦しい生活を強いられている小作農が、それにも拘わらず、地主に小作料を納めるように責められて、一切のものを失おうとしている状況を思い浮かべてみればよいでしょう。

 どんなに願っても雨が降らず、収穫に与ることが出来ないため、貧しい小作農たちは、その貧困から逃れるすべがありません。そのように、問題が自分に押し迫り、一切を飲み尽くそうとしています。しかし、それを押し返すだけの力が、自分にはありません。

 そのとき、神の姿はとても小さいものになっています。時には、本当に神はおられるのだろうかと、その存在を疑わしく思うほどになります。押し迫る問題が自分の心の中であまりにも大きくなり、問題の向こうに神が隠れてしまうのです。だから詩人は、「なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」と叫び、訴えているわけです。

 3節で、「主をたたえながら、侮っている」というのは、「この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている」(イザヤ書29章13節)という預言者の言葉を思い起こさせます。「たたえる」(バーラフ)を、口語訳、新改訳は「呪う」と訳しています。神の名を用いながら貪欲に貧しい者から搾取するのは、神を侮り、神を呪うような振る舞いだという解釈なのでしょう。 

 彼らは、主の裁きは「あまりにも高い」から、自分たちには影響がないとうそぶいて(5,6節)、「口に呪い、詐欺、搾取を満たし、舌に災いと悪を隠す」(7節)のです。

 唇や舌による悪について、ローマ書3章の「正しい者はいない」という段落で、悪行のリストが提示されている中に、「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦みで満ち」(同3章13,14節)という言葉をパウロは記しています。言葉による悪、罪に無縁の者はいないということでしょう。

 さらに、神に逆らう者たちは、貧しい人、不運な人に襲いかかります。彼らは罪もない人を殺し、しかし、自分たちに罪がないように振る舞います(8節以下)。そのような状況の中で、貧しい人々は、「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と、絶望の淵にうずくまっています(11節)。

 詩人はこのように、貧しい人々、不運な人々の苦境を主に訴えて、冒頭の言葉(12節)の通り、 「立ち上がってください、主よ。・・貧しい人を忘れないでください」と執り成し祈ります。

 「立ち上がってください」(クーマー)は、民数記10章35節に、「主よ、立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は御前から逃げ去りますように」とあり、主の箱が出発するときに、モーセはこう言ったというのですが(同34節)、これは、荒れ野を移動するときというより、神の箱を携えて出陣するときの言葉のようです。詩編3編8節、17編13節、35編2節、44編27節などの用法も、それを支持します。 

 詩人は、主は必ず自分の祈りに答え、立ち上がってくださると確信しているようです。だから、「なぜ、逆らう者は神を侮り、罰などはない、と心に思うのでしょう」(13節)と語り、「あなたは必ずご覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます」(14節)と、信仰によって宣言しています。

 詩人にとって、「不運な人」(ヘーレカー:口語訳は「寄るべなき人」)は、単にアンラッキー、不幸な人というのではありません。神の御前に立って訴える権利も資格もないことを知っている貧しい人ですが、だから、自分を苦しめる権力者によって与えられている苦痛をありのまま神に訴え、すべてを神の御手に委ねるほかない人なのです(14節後半)。

 嵐の夜、「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と、眠っておられた主イエスを起こして訴えたペトロのように(マルコ福音書4章38節)、また、霊に取りつかれた子どもを主イエスのもとに連れてきた父親が、「信じます、信仰のないわたしをお助けください」と、憐れみを求めて自らの心を開いたようにです(同9章24節)。

 主イエスは、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」(ルカ福音書6章20節)と 仰いました。貧しい人に神の国が与えられるのは、百パーセント神の恵みです。そこにしか頼るものがない、そこにしか避けどころを持ち得ない人々の信頼と希望を裏切られはしないのです。

 あらためて、「不運な人はその手に陥り、倒れ、うずくまり、心に思う、『神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない』と」(10,11節)というのは、私たちの罪の呪いを一身に負って十字架に死なれた主イエスの姿そのもののようです。

 主イエスは、この虐げられ、苦しめられている貧しい人、不運な人の傍らに共におられ、その運命をご自身のこととして引き受け、そして、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ福音書15章34節)と、私たちに替わり、十字架の上で父なる神に叫んで訴えられたのです。

 そして、父なる神は、主イエスを陰府に捨て置かれはしませんでした。三日目に甦らせ、そうしてご自分の右の座に着かせられたのです。今私たちは、主イエスを信じる信仰によって神の子とされ(ヨハネ福音書1章12節)、主イエスとともに座に着くことが許されています(エフェソ書2章6節など)。

 あらゆる問題を主のもとに持ち出しましょう。訴えましょう。神のもとに助けがあることを信じ、主を待ち望みましょう。苦しみの中にある方々のために、執り成し祈りましょう。

 主よ、多くの方々が自然災害の犠牲となり、その苦しみが続いています。また、人の愛のない業によって傷つき、苦しめられている人が大勢います。どうか主の癒しと助けがありますように。日々、その生活を顧みてください。主の恵みを信じます。憐れみを信じます。 アーメン