「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ、驚くべき御業をすべて語り伝えよう。」 詩編9編1節

 9,10編は、もとは一つの詩だったと考えられています。それは、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)でこの二つを一つの詩としているからです。そういわれてみると、10編には、表題がありません。

 また、新共同訳聖書は、9,10編が「アルファベットによる詩」であると紹介しています。これは、9編は偶数節、10編は奇数節の冒頭の文字が、いわゆる「いろは歌」の形式(ヘブライ語のアルファベットの順番)に並べられており、9,10編両方あわせると、アルファベットによる詩が完成するという構成になっています。

 ヘブライ語のアルファベットは22文字で出来ています。アルファベット22文字が、1節おきの冒頭の文字として順番に並ぶように詩を作るというのは、一つの技巧ですが、これは、詩を覚えやすくするという利点があると共に、言葉を尽くして神に感謝と賛美をささげ、あるいは祈りと願いをささげるという信仰のあらわれではないかと思います。

 これらが、二つの詩が一つのものだったとされる根拠ですが、それがなぜ二つに分けられたのか、理由を明確にすることは、容易ではありません。おそらく、その内容が、二つに分けられるからだろうと思われます。

 表題に、「ムトラベンに合わせて」とあります。ムトラベンとは、「息子のために死ね」という意味ですが、もう一つ意味不明です。詩編の編纂当時、このような歌詞で歌い始められる歌があって、その旋律に乗せてこの詩を朗読したということなのでしょう。

 詩のはじめには感謝の言葉、賛美の言葉が記されていますが、14節、20節を見ると、詩人は苦しみに直面していることが分かります。その苦しみは、詩人を憎む敵によってもたらされています。敵は、「異邦の民」(6,16,18,20,21節)です。

 10節に、「虐げられている人に、主が砦の塔となってくださるように」と記されていますから、詩人は、異邦の民によって虐げられ、苦められているわけです。「憐れんでください、主よ」(14節)と言い、「御覧ください、わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを」と言っていますので、この苦しみは既に過去のものとなった、ということではありません。今もなお、苦しみの現実の中にあるのです。

 そして、自分でその現実を変えることが出来ないのです。敵を打ち破ることが出来ないのです。その力がないのです。助けが必要なのです。神の憐れみがなければ、弱り果てて死の門をくぐってしまうかも知れない(14節)、というような現実の中に生きているのです。

 であれば、なぜ詩人は1節で、「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ、驚くべき御業をすべて語り伝えよう」と語っているのでしょうか。これは、ただ単に、神が敵を打ち倒し、裁いてくださったから感謝するという言葉ではないのです。むしろ、誓いの言葉、信仰の告白、宣言といった方がよいと思います。

 つまり、自分が置かれている現実がいかなるものであっても、絶えず神を喜び、誇り、「御顔を向けられて敵は退き、倒れて、滅び去った」(4節)と御名をほめ歌おうというのです。それは、神は御座におられて、私たちのために「正しく裁き、わたしの訴えを取り上げて裁いていてくださる」(5節)と信じているからです。神は私たちの賛美を、感謝を喜び受けとめてくださいますが、この賛美は、詩人の信仰の賛美なのです。

 12節で、「シオンにいます主をほめ歌い、諸国の民に御業を告げ知らせよ」と賛美の声を上げるのも、「主は流された血に心を留めて、それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない」(13節)という過去の経験に基づく信仰があるからです。

 14節で、「憐れんでください、主よ」、「ご覧ください、わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを」と、救いを求める祈りが記されていますが、続く15節には、「おとめシオンの城門であなたの賛美をひとつひとつ物語り、御救いに喜び躍ることができますように」と、賛美の誓いを立てています。

 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」(ヘブライ書11章6節)とあるとおり、敵を滅ぼされる前から、いまだその虐げの中に、苦難の中にあっても、神は必ずそうしてくださると信じて、神を賛美しているのです。

 しかも、「心を尽くして」主に感謝をささげ、驚くべき御業を「すべて」語り伝えようと言います。中途半端ではないのです。要領よく、口先だけで、というのではありません。彼の人生、心も思いもすべて神にささげ、感謝と証しの生活をするということです。主が私たちに求めておられるのは、まさに「感謝と証しの生活をせよ」ということではありませんか。

 使徒パウロも、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」 (第一テサロニケ5章16~18節)と語っています。それは、私たちの努力や決断などで実現できることではありません。キリスト・イエスの助け、聖霊の導きがあってはじめて可能になることです。

 日ごとに主を仰ぎましょう。御言葉に耳を傾けましょう。御霊の導きを待ち望みましょう。そうして、心から、主を賛美いたしましょう。 

 主よ、東日本大震災から既に4年5ヶ月が経過しようとしています。未だに仮設住宅で暮らさざるを得ない人々がいます。復興の道筋も立たない人々が大勢います。どうぞ憐れんでください。助けてください。しかし、夜は夜もすがら泣き悲しんでも、喜びの朝を迎えさせてくださると信じていますから、私たちも心を尽くして主に感謝をささげ、その驚くべき御業をすべて語り伝えます。御名が崇められますように。御心がなりますように。 アーメン