「この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。」 ヨブ記41章25節(口語訳:33節)

 神はヨブに対し、大地や海、天体などの大自然について(38章1節以下)、また、雌獅子や烏などの動物について(38章39節以下)、その理解を尋ねたのに続き、ベヘモット(40章15節以下)とレビヤタン(同25節以下:口語訳は41章1節以下)について、問いかけました。41章には、引き続きレビヤタンを描写する表現が列挙されています。

 口語訳聖書では、ベヘモットもレビヤタンも実在の動物と考えて、ベヘモットを「河馬」、レビヤタンを「わに」と翻訳していましたが、新共同訳は原語の音をそのままカタカナ表記にして、陸と海の怪獣のような表現にしています。新改訳はその折衷案のように、ベヘモットは「河馬」、レビヤタンはそのままのカタカナ表記にしています。

 解釈は様々でしょうが、既に39章に実在の動物は取り上げられていますから、ここは、新共同訳聖書のように、陸と海の怪獣という神話的な表現と考える方がよいと思われます。特に、「口からは火炎が吹き出し、火の粉が飛び散る。煮えたぎる鍋の勢いで、鼻から煙が吹き出る。喉は燃える炭火、口からは炎が吹き出る」(11~13節)は、実在の野生生物ではあり得ません。

 創世記3章に、蛇が善悪の知識の木の実をとって食べるように女性を唆し、神に背かせたと記されています。実在の蛇が人間のようにものを言うはずがありませんから、それは、悪魔サタンが蛇の姿を借りて人間を誘惑したのだと解釈されます。レビヤタンは、イザヤ書27章1節では蛇、海にいる竜とあり、まさに悪魔的な存在をさしていると考えることも出来ます。

 人は、自分の力で悪魔に立ち向かうことが出来るでしょうか。1節で、「勝ち目があると思っても、落胆するだけだ」と言われ、17節には、「彼が立ち上がれば神々もおののき、取り乱して逃げ惑う」と記されています。さらに、冒頭の言葉(25節)でははっきりと、「この地上に、彼を支配する者はいない」と断言されています。

 「地上」(アル・アーファール)とは、「塵の上」という言葉です。「支配する者」(モーシェル)は、「似たもの」という意味もあり、この言葉の動詞形(マーシャル)が30章19節で、「等しくなる」という意味で用いられています。 その箇所で、ヨブは、「わたしは泥の中に投げ込まれ、塵芥に等しくなってしまった」と語っていました。「塵」とは、そこから造り出された人を意味しています。

 人の中に、レビヤタンに等しいもの、これに並び得る者はいない、むしろ、「奢り高ぶるものすべてを見下し、誇り高い獣すべての上に君臨している」(26節)と、さながら、レビヤタンがすべての生物の王であるかのように言われています。「奢り高ぶるもの」(ガーボーアハ)は、40章11,12節とは違う言葉が用いられていて、ここではヨブに当てて用いられているようです。 

 ところで、ここで何故神は、レビヤタンを話題にしておられるのでしょうか。それは、神がレビヤタンを支配しておられること、御自分の思いのままにレビヤタンを用いることが出来るということを示しておられるのです。まさしく、人には出来ないことでも、神に出来ないことはないのです。「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ」(3節)と言われるとおりです。

 ヨブは、サタンにさんざん苦しめられました。そして、三人の友らと言い争い、自らの義を強く主張するあまり、神が間違っているとさえ、考えてしまいました。感情的になったヨブは、自分の内なるレビヤタンを治めることが出来なかったのです。

 主なる神は、ヨブの内にある高ぶりの芽、自己中心の苦い根があることを知らせるため(ヘブライ12章15節参照)、サタンを用いてヨブを試みることを許し(1章12節、2章6節)、改めて神の御前に謙り、主に信頼して御言葉に聴き従うように導かれたわけです。

 そうして、主なる神は、御子イエス・キリストを人としてこの世に遣わされました。御子は、私たちの罪のために十字架にかかり、死んで葬られましたが、三日目に甦られました。その死と復活によって、罪と死の支配に打ち勝ち、罪に死んでいた私たちを命の支配のうちに移して下さいました。私たちの罪は赦され、神の子として生きることが出来るのです。それは、一方的な神の恵みであり、憐れみです。

 「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです」(ヘブライ書5章8~10節)。

 マルコ10章35節以下で、ヤコブとヨハネが主イエスに、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(同37節)と願いました。「栄光をお受けになるとき」は、主イエスが王になられるときという意味で用いられています。それに対して、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(同38節)と仰いました。ヨブと神との対話のようです(38章2節、42章1~6節)。

 さらに、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか」(同38節)と尋ねられました。予め、「できません」という答えを想定しての問いだと思いますが、しかし、二人は、「できます」と答えます(39節)。そして、主イエスも、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる」と肯定されました。

 その後、言葉をついで、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(同43,44節)と言われました。ここに、キリストによる支配が、ヤコブとヨハネが考えていたような、この世の王としての支配ではなく、また、レビヤタンのような暴力的力による支配でもなく、僕として皆に仕えるというものだと明らかにされています。

 そして、主イエスに従う者たちは、神のかたちに造られたものであることを、皆に仕える僕となるという召しに答えることを通して、人々に証しする者となるよう、招かれているのです。自分の知恵知識、経験などで、そのようになれるわけではありません。私たちを招かれる主に信頼し、御霊の満たしと導きに与ってこそのことです。

 十字架の主を仰いでその御顔を拝し、御口をもって語られる御言葉一つ一つに真剣に耳を傾けましょう。常に私たちと共にいて、私たちのために執り成し、慰め励まして下さる主イエスの御言葉に従って歩みましょう。

 主よ、私たちは自分一人で立っているのではありません。常に主が共にいて、私たちを立たせてくださっています。御前に謙り、主により頼みつつ、御言葉に聴き従って歩ませてください。絶えず聖霊に満たし、主の御心を行う力をお与えください。全世界に主イエスの平和がありますように。 アーメン