「しかし、だれも言わない、『どこにいますのか、わたしの造り主なる神。夜、歌を与える方。地の獣によって教え、空の鳥によって知恵を授ける方は』と。」 ヨブ記35章10,11節

 35章は、エリフの三回目の弁論です。エリフは再度、「神はわたしを正しいとしてくださるはずだ」(2節)というヨブの発言を問題にし、さらに3節で、「わたしが過ちを犯したとしても、あなたに何の利益があり、わたしにどれほどの得があるか」と言います。これは、34章9節の「神に喜ばれようとしても何の益もない」とヨブが言っていたという発言を、悪意をもって変形したような言葉です。

 3節の原文はとても難解で、様々に解釈があります。口語訳は、「あなたは言っている。『何があなたの役に立つのでしょうか。私が罪を犯さないと、どんな利益がありましょうか』と」。新改訳は、「またあなたは言う。『わたしが過ちを犯したとしても、あなたに何の利益があり、わたしにどれほどの得があるのか。』」。岩波訳は、「まことに、あなたは言う、『いったい、私に何か益するのか、私が罪を離れても、何の得になるのか」と訳しています。

 2節、34章9節との関連で考えると、岩波訳のように訳すのがよいのではないかと思います。勿論、ヨブがこういう発言をしているということではありません。ヨブが自分の潔白を主張して、悔い改めようとしないのは、罪を離れても、何の得にもならないから、そこから離れないと言っているようなものだ、とエリフが考えたということでしょう。

 5節から8節まで、人の言葉と行いで神に影響を与えることはできないと言っていますが、これは、22章2~4節のエリファズの言葉を展開したものです。このことについては、ヨブも7章20節で、「人を見張っている方よ、わたしが過ちを犯したとしても、あなたにとってそれが何だというのでしょう」といって、神の超越性に訴えて、苦しみから解放してくださるように願っていました。

 勿論、神が人の世界をはるかに高いところにおられて、人の罪でそれを害したり、人の善い行いで神に利することはできないからといって、不道徳な生活をしてよいというのではありません。ただ、自分の道徳的生活をもって神に働きかけ、そのアドバンテージで自分の願いをかなえてもらうことなどはできないということです。

 9節以下では、ヨブの叫び、求めに神がお答えにならないことについて、取り上げています。ヨブは30章20節で、「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない」と言っていました。

 エリフは、「抑圧が激しくなれば人は叫びを上げ、権力者の腕にひしがれて、助けを求める」(9節)と、時の権力者による抑圧で人々は叫び声を上げるという一般論を述べ、そして、冒頭の言葉(10,11節)のとおり、「しかし、だれも言わない、『どこにいますのか、わたしの造り主なる神、夜、歌を与える方。地の獣によって教え、空の鳥によって知恵を授ける方は』と」と述べて、苦難の中で謙遜に神に知恵を求める者がいないと評します。

 叫び声を上げ、助けを求めてそれが答えられないのは、そのように謙って神を尋ね求めないからで、それは、「悪者が高慢にふるまう」ことだと結論づけています(12節)。ヨブの苦しみの原因が何であれ、ヨブに求められる姿勢は、自分にはこのような苦しみに遭う理由が分からないというのではなく、「わたしの造り主なる神はどこにおられますか」と、謙遜に尋ね求めることだというのです

 そして、「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ」と言います(14節)。ヨブが空しく口を開き、愚かなことを言い続けられるのは、神が裁きの時が来るのを待っておられるからで(15,16節)、ただ沈黙しておられるわけではないということであり、その意味では、今神が沈黙しておられるのも、神にふさわしいことなのだというのです。

 あらためて、エリフは冒頭の言葉で、神を、「わたしの造り主なる神。夜、歌を与える方。地の獣によって教え、空の鳥によって知恵を授ける方」と紹介しています。ヨブは、自分の被った災難から解放されないことについて、神の正しさを問題にしているけれども、神はご自分が創造された天と地、地の獣や空の鳥を通して、つまり、どのようなことからでも、人を教え、知恵を与えることが出来ると、エリフは考えているのです。

 エリフ自身が語っているように、ヨブの訴えは神の御前にあります(14節)。神はどんな言葉も受け止めてくださいます。それはしかし、未だ怒りの時が来ていないので、神が聞き過ごしておられる、などということではないでしょう(15節参照)。神はその訴えを無視しておられるのではなく、むしろヨブの傍らに寄り添い、思う存分語らせて、そのすべての思い、願いに静かに耳を傾けてくださっているのだと思います。

 もう一言、エリフは神について、「夜、歌を与える方」と語りました。なぜ、夜に歌が与えられるのでしょうか。苦しみ、悩みで眠れない夜を過ごすことがあります。そうしたとき、深く孤独を味わうものです。けれども、そのときに、神に出会う経験をするのです。そして、そこで嘆きが歌に変えられるのです。

 詩編30編6節に、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」という言葉がありました。また、同16編7節に、「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます」と記されています。悲しみの夜、光を見ることができない闇の中で、神の励まし、諭しを受けて主をほめたたえる、その歌をもって朝を迎えることができたということです。 

 フィリピ伝道の初めに無実の罪でむち打たれ、投獄されたパウロとシラスが、「真夜中ごろ」、「賛美の歌をうたって」、神に祈りました(使徒言行録16章25節)。それは、まさに神の導きだったわけです。

 神は、私たちの苦しい、辛い状況を、遠く離れたところから見下ろしておられるお方ではなく、私たちに傍らに来て、私たちに代わってそれを背負い、私たちを癒してくださるお方なのです。

 主よ、あなたは、泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださるお方です。私たちの嘆きを踊りに変え、荒布を脱がせ、喜びを帯としてくださいます。悲しむ者に深い慰めをお与えくださる主の恵みと平和が、今、助けを、解放を必要としている人々に、そして全世界に豊かにありますように。 アーメン