「人が神に対してこう言ったとする。『わたしは罰を受けました。もう悪いことはいたしません。わたしには見えないことを、示してください。わたしは不正を行いましたが、もういたしません。』」 ヨブ記34章31,32節

 エリフはヨブの応答を待たず、2回目の弁論に入ります。語り尽くしたヨブは(31章40節)、エリフに答えるつもりもないのでしょう。

 2節の「知恵ある者」、10節の「分別ある者」というのは、4節の「わたしたち」という言葉から、エリフがエリファズらヨブの友人たちと共同戦線を張ってヨブに相対するための呼びかけの言葉でしょう。32章では、彼らのふがいなさへの腹立ちを示していたので、この呼びかけは、外交辞令というところでしょうか。

 5,6節に、ヨブの主張を取り上げ、「嘲りで喉をうるおし、悪を行う者にくみし、神に逆らう者と共に歩む」(7,8節)と結論します。

 ただ、9節で「『神に喜ばれようとしても、何の益もない』と彼は言っている」と、その根拠を示していますが、ヨブ自身は、神に逆らう者らを観察した結果を21章7節以下に提示し、「なぜ、全能者に使えなければならないのか。神に祈ってなんになるのか」(同15節)と、彼らの発言を取り上げた後、「神に逆らう者の考えはわたしから遠い」(同16節)と、はっきり否定していました。

 10節から、自分の立ち位置を明らかにして、ヨブとの対論に備えます。それは、①神は正しい:「神には過ちなど、決してない」(10節)、②神は公平:「神は人間の行いに従って報いる」(11節)という、伝統的な信仰による立場であり、これは確かに、エリファズらと同じ土俵に立っているといってよいでしょう。

 16節以下、自分の立ち位置からヨブに、「正義を憎む者が統治できようか。正しく、また、力強いお方をあなたは罪に定めるのか」(17節)と厳しく問いかけます。ただ、そのことに関して、ヨブも「神より正しいと主張できる人間があろうか。神と論争することを望んだとしても、千に一つの答えも得られないだろう」(9章2,3節)といって、神を罪に定めることなどできはしないと語っていました。

 エリフは、「神は人の歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ておられる」(21節)と語ります。22節以下との関連で、これは、隠れて悪を行っても神が見ているという警告で、因果応報の原則が示されています。この原則に基づき、ヨブの不幸は、彼の悪がその原因と結論されるわけです。

 冒頭の言葉(31,32節)は、ヨブの悔い改めの言葉と解釈し、エリフがヨブにこのように告白するようにと促している言葉になっています。ただ、原文は不明瞭で、様々な解釈が成り立ちます。口語訳は、「わたしは罪を犯さないのに、懲らしめられた」と訳して、自分の無実を告げ、自分は懲らしめられる理由が分からないから、悪いことをしたというなら、それを示してほしいと訴える言葉としています。

 ATDという註解書は、この言葉を神がヨブに告げる言葉と解釈して、神が人に対して、「わたしは悪いことをしました。もういたしません」と謝罪し、更生を誓う言葉を告げているように訳して、エリフがヨブに、神があなたの前にそのようなことをするだろうかと問う言葉という註解をしています。原文の直訳では難しい読み方ですが、前後の文脈から、この読み方は、筋が通っています。
 
 当然、この問いに対する答えは、神がヨブに謝罪されたり、悔い改めをヨブに告げるなどということは、あり得ないということになります。だから、ヨブが、「自分は正しいのに神に不当に懲らしめられている」というのは間違いだという論法で、だから、「ヨブはよく分かって話しているのではない。その言葉は思慮にかけている」(35節)というわけです。

 36節の、「彼を徹底的に試すべきだ」というのは、そのように悔い改めようとしないヨブには、さらに苦難が続くということ、そしてまた、彼がどこまで神に背き、悪を行っているのか、さらに調べるべきだと言っているようです。

 こうして、エリフが確かにエリファズらと同じ立場に立ち、同じように、ヨブの言葉を正しく聞くことができないまま、自分の立場に基づいて判断を下すという過ちに陥っています。

 私は小さい頃から、お天道様が見ているよ、お見通しだよと、周囲の人から何度言われたか分りません。それほどよい子ではなかったからです。だから、何度周囲の人々に、冒頭の言葉のように、「ごめんなさい、もうやりません」といったか分かりません。そう言いながら、またやるという悪い子でした。

 確かに、神のまなざしには、いわゆる悪を見逃さないという側面があることを否定はしませんが、しかし、私たちに注がれている神のまなざしは、何か悪事を働いているのではないか、変なことを考えているのではないかと、私たちの罪を暴こうとするものではありません。

 むしろ、神は私たちが悪い者であること、善いことを考えない者であることを、先刻ご承知です。神はノアの洪水の後、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と言われています(創世記8章21節)。私たちをお裁きになるつもりなら、そのために見張っている必要もないわけです。

 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」ている(イザヤ書43章3節)という言葉について、イスラエルの民であれ、私たちであれ、私たちの側に神様を喜ばせるよいものがあって、それで、「価高く、貴く」という評価になるわけではありません。神は私たちを愛をもって見つめておられるので、私たちが何者であっても、「価高く、貴い」者として見ていただけるわけです。

 そして、罪の呪い、裁きにおののく私たちに、「恐れるな」と語りかけられました。そして、私たちの罪の贖いのため、代償としてご自分の独り子を差し出されたのです。そのようにして私たちの罪を赦し、永遠の命の恵みに入れて下さる主は、私たちを助けて足がよろめかないようにし、眠ることなく、まどろむことなく、私たちを見守っていて下さるのです(詩編121編3,4節)。

 私たちを愛してやまない主なる神が、私たちの歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ていてくださるというのは、何と幸いなことでしょうか。心安らぐことでしょうか。絶えず主に信頼し、感謝と喜びをもって主の御声に耳を傾けましょう。御霊の導きに従いましょう。

 天地を創られた主よ、あなたが私たちの歩みに目を注ぎ、その一歩一歩を見ていてくださることを、心から感謝致します。私たちの足がよろめかないように、滑らないように、見守っていてください。すべての災いを遠ざけて、私たちの魂を見守ってくださいますように。特に、国がその歩みを誤らないように、正しい道に導いてください。全世界に主の平和と恵みに満ち溢れますように。 アーメン