「千人に一人でもこの人のために執り成し、その正しさを示すために遣わされる御使いがあり、彼を憐れんで、『この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました』と言ってくれるなら、彼の肉は新しくされて、若者よりも健やかになり、再び若いときのようになるであろう。」 ヨブ記33章23~25節

 怒りによって口を開いたエリフは、「神の霊がわたしを作り、全能者の息吹がわたしに命を与えたのだ」(4節)といって、霊感を受けて語る自分の言葉を聞き、「答えられるなら答えてみよ」(5節)と挑戦します。そうして、8節以下に、いよいよ本論に入るのです。

 そこでまず、ヨブの語っていたことを取り上げます(8節)。ヨブは、「わたしは潔白で、罪を犯していない。わたしは清くとがめられる理由はない」(9節)、なぜ自分が苦しまなければならないのかと神に訴えていました(27章5節、31章5節以下参照)。

 そこでエリフは、「ここにあなたの過ちがある、と言おう。神は人間よりも強くいます。なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることを一々説明されない」(12,13節)と、神の裁きは間違っていると訴えることが、ヨブの過ちであると示し、「神は一つのことによって語られ、また、二つのことによって語られるが、人はそれに気がつかない」(14節)と語って、すべてのことに神の目的があると諭します。

 エリフのいう二つのことのひとつは、「人が深い眠りに包まれ、横たわって眠ると、夢の中で、夜の幻の中で、神は人の耳を開き、懲らしめの言葉を封じ込められる」(15,16節)と示されます。これはヨブが、「あなたは夢をもってわたしをおののかせ、幻をもって脅かされる」(7章14節)と語っていたことにあてこすった言い方です。それが神の警告で、悔い改めて神に従えというわけです。

 いまひとつは、「苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく、・・・魂は滅亡に、命はそれを奪うものに近づいてゆく」(19節以下22節)と言われるところで、人を襲う苦難によって警告し、魂が滅び、命が奪われてしまわないように、苦痛が、罪を離れ、神に従えと告げる言葉とされているのです。

 確かに、神はさまざまな語り口を持っておられます。決して、沈黙してばかりおられるわけではありません。勿論、直接、神の言葉を耳や目、心に受けることがあります。聖書を通してということも、また、預言者ら人を介してということもあります。空の鳥や野の花など自然界の生物が語り手になることもあるでしょう。神を求め、神に聴こうとしていれば、あらゆるものからそれを受け止めることができると思います。

 敵国の王が神の言葉を語ることがありました(歴代誌下35章21,22節)。エジプトで繰り返された苦難は、ファラオに対する神の警告でした(出エジプト記14章14節以下)。しかし、神がお語りになるのは、警告や懲らしめの言葉ばかりではないでしょう。ヤコブは夢で、ルズの荒れ野が「神の家、天の門」であることを知りました(創世記28章12,17,19節)。

 使徒パウロは、苦難を誇りとするといい(ローマ書5章3節)、また、「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ書1章29節)と語っています。彼は自身の苦しみに、神の恵みを見、味わい、受け取ったのです。

 しかし、それをしっかり受け止められるか、神の言葉として聞き取ることができるかといえば、むしろ、聞き逃してしまってばかりいるのではないでしょうか。よいことがあれば、それを神の恵みと受け取るよりも、自分の知恵力の賜物と考えるでしょう。悪いことは人の所為にしたりして、それで神が何を物語られているのかなどと静かに耳を傾ける気持ちにはなりません。パウロのように、苦しみを神の恵みと受け取るのは、まずもって困難です。

 冒頭の言葉で、ヨブのためにその正しさを証言する御使いがいて、執り成してくれるなら(23節)、そして、憐れみを乞うてくれるなら(24節)、健康になり、若さを回復するだろう(25節)と語ります。また、神との親しい交わりが回復されます(26節)。つまり、かつての繁栄を取り戻すことができるということです。

 それらのことは、まさにヨブが願っていたことで(9章32節以下、16章19,20節、19章25節参照)、その意味で、これがヨブの一番聞きたかった言葉といってよいのではないでしょうか。

 エリフはそのとき、どういうつもりでこれを語っていたのでしょうか。ヨブのために執り成す方がいると、確信していたのでしょうか。むしろ、「千人に一人でも」ということは、そのような御使いがいると信じていたわけではない、それのみか、そういう人がいるはずはないという、ヨブの願いを打ち砕く表現ではないかと思われます。

 ここでエリフは、自分で何を言っているのか、よく分っていなかったのかも知れませんが、確かに神の霊が彼の内に働き、全能者の息吹に押し出されて、示されたところを語ったのではないかと思います。

 エリフはここで、「代償」(コーフェル)という言葉を使っています(24節)。これは、「贖い代、賠償金」という言葉で、命の代価、それによって死を免れるものという意味です。イザヤ書43章3節の「身代金」が、その言葉です。「この人のために」(23節)は、「この人に代わって」という意味でもあります。ヨブのために、ヨブに代わって、正しさを示すために御使いが遣わされます。

 聖書で「代償」といえば、それは、主イエスの贖いの業のことです。神の独り子なる主イエスが、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、その命の代価によって、私たちを救ってくださったことです。使徒パウロが、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ書3章24節)と語っているとおりです。

 また、「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(第一ペトロ書1章18,19節)、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(第一コリント書6章20節)と言われています。

 30節に、「その魂を滅亡から呼び戻し、命の光に輝かせてくださる」と言われています。これは、主イエスがヨハネ福音書8章12節で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と語られたことにつながります。イエス・キリストの贖いの業によって、私たちの魂が滅びから呼び戻され、主イエスによって命の光に輝かせてくださるということなのです。

 私たちも、聖霊を通して日々神の御言葉を受け、命の光に輝くようにと招かれる主イエスの御前に絶えず謙り、導きに従って歩ませていただきましょう。

 主よ、エリフの言うように、夢や幻、また苦難を通して語られる神のみ言葉に耳を傾けることができるでしょうか。自分の意に沿わないものを受け入れるのは、決して容易いことではありません。常に神を求め、その御心に従いたいという心を与えてください。その思いをもって、告げられる御言葉に耳を傾けさせてください。すでに、御子キリストが私たちのために、私たちに代わって、代償を支払ってくださいました。その恵みを感謝しつつ、聴いたところに従って、主の御業に励むものとしてください。御名が崇められますように。 アーメン