「『いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう』などと考えるべきではない。」 ヨブ記32章13節

 ヨブの最終弁論が終わったとき、腹を立てて発言を始めた人物がいました。それは、「エリフ」という若者で、「ブズ出身でラム族のバラクエルの子」と紹介されています。「エリフ」は、「彼は神」という意味です。父親の「バラクエル」は、「神は祝福する」という意味です。「ラム族」とありますが、「ラム」は高いという意味です。「ブズ」については、アブラハムの兄弟ナホルの次男が「ブズ」です(創世記22章21節)。

 ちなみに、ナホルの長男は「ウツ」で、それは、ヨブがいる町の名でした(ヨブ記1章1節)。ということは、エリフはヨブの親族に当たる存在ということになるのかもしれません。エレミヤ書25章23節も、ブズ人がアラビアの人々であることを示しています。

 ここでエリフは、ヨブに対して怒りをもって語り始めます。それは、ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するからです(2節)。神が言い分を聞いてくだされば、自分が潔白であることが分かるというヨブの主張は、神がヨブに対して行っていることは間違っていると言っているわけで、それは、ヨブの方が神よりも正しいと主張していることだというのです。

 また、このように神を敵に回して言い争おうとするヨブの過ちを正しく指摘できない三人の友らに対しても、エリフは怒ります(3,5節)。エリフにとって、三人の友がヨブに言い負かされて沈黙したことは、神の義を汚し、ヨブの過ちを黙認するという大問題だったのです。

 2~5節の短い箇所に、4回も「怒る」(ハーラー)という言葉が出て来ますので、彼が大変感情を害していたこと、その感情丸出しの意見開陳であったことが伺えます。大変な苦しみの中にいるとはいえ、そして、ヨブが律法に従って正しく歩んで来た者であることは誰もが知っていることだったのでしょうけれども、しかし、神よりも自分の方が正しいなどというヨブの暴論を、エリフとしては到底聞き流しておくことが出来なかったわけです。

 エリフの言葉の中に、大変重い言葉を見つけました。それは冒頭の言葉(13節)の、「『いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう』などと考えるべきではない」という言葉です。これは、三人の友らに向けて語られているもので、ヨブの過ちを正しく指摘しないまま、ヨブを打ち負かすのは神御自身で、それは人の役割ではないと、沈黙してしまうのは間違いだということです。

 何が重いのかといえば、苦しみの中にいる人、そしてその苦しみの中から神に向かって抗議の言葉を語る人に対して、人間が何を語り得るのかということです。どういう言葉が彼の慰めとなり、励ましとなるのでしょうか。どうすれば、彼を正しく苦しみの闇から希望の光へと導き出すことが出来るのでしょうか。

 人が人の上に立って、見下すような思いで語られる言葉は、相手の心を動かしません。同じ苦しみを味わい、同じ境遇におかれた者でない限り、相手の心に届く言葉を語ることは出来ないのではないかと思われるのです。特に、心身共に苦しんでいる上、友らとの議論で冷静さを欠いているヨブに対して、「怒り」をもって語るエリフの言葉が届くのでしょうか。

 しかも、このエリフの言葉は、ヨブに対しても、自分は神と対話したいと考えているだけだ、ほかの者は沈黙せよ(13章3,5節、21章4節)などという思い上がった考えを持つなという、挑戦的な意味合いを持っています。

 ここには、神と人との交わりを閉ざし、人と人との交わりを妨げ、破壊しようとする、どのような企てにも屈しないぞという、若者エリフの心意気を感じます。エリフがこれを語ったのは、日数、年数といった人生経験ではありません。「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ」(8節)という言葉に示されているように、彼の背後に神がおられ、霊に感じさせて語るべき言葉を与えておられたということです(18節も)。

 19節に、「見よ、わたしの腹は封じられたぶどう酒の袋、新しい酒で張り裂けんばかりの革袋のようだ」 というのは、エレミヤ書20章9節のエレミヤの言葉を彷彿とさせます。自分の発言は、預言者としてものものだといっているかのようです。

 また、6節の「わたしの意見」(デイイー)は、「知識」(デイア)に「わたしの」を意味する接尾辞(イ)がついたものですが、これは、前後の文脈から、経験や伝統的判断による考えではなく、神の霊感によって得られた知識だということでしょう。10,17節も同様です。37章16節の「完全な知識を持つ方」というところでの用い方が、それを支持しています。

 冒頭の言葉で、エリフは、自分がヨブを言い負かそうと考えていることが分かります。そのために、抑えがたく与えられている溢れ出る勢いを持った言葉で(19節)、霊感によって与えられた知識を披瀝しようということです(8,10節)。そのような言葉遣いで、自分の語る言葉を権威づけているわけです。その原動力が「怒り」であったことは、前述のとおり、2,3,5節に示されています。

 エフェソ書6章10節以下に、悪魔の策略に陥らず、暗闇の世界の支配者と戦うために、神の武具を身に着けよと語られています。そこに、「救いの兜をかぶり、霊の剣、すなわち、神の言葉を取りなさい」(同17節)と記されています。神の言葉が霊的な刃物だということですが、それはしかし、「血肉を相手にするものではな」い(同12節)のです。霊感された言葉で人を言い負かそうというのは、正しいことなのでしょうか。

 エリフが、「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ」(8節)といって、自分はその霊感を受けて語ると自らの言葉を権威付ける根拠は、彼が怒りを持って立ち向かおうとしているヨブにも、そして、エリファズら三人の友人たちにも当てはまります(4章12節以下、15章11節、23章3,4節)。だれが買っても負けても、それが霊感された言葉によるということになるでしょう。

 だれが、真に神の霊を受けて語っているのか、それは、読者自身が全能者の息吹を通して悟りを得るしかないでしょう。そこでは、誰に勝つか負けるかは問題ではなくなります。ただ、神に告げられたとおりに語ったのかどうかが問われます。神に命じられもしないのに、怒りに溢れてその知識を語るというのでは、「神に代わったつもりで論争するのか。そんなことで神にへつらおうというのか」(13章8節)と言い返されてしまいます。

 どんなときにも、主のみ前に謙りましょう。そのみ声に耳を傾けましょう。その恵みを隣人と分かち合いましょう。「霊の剣、すなわち神の言葉」が、人を傷つけ殺す刃物でなく、医師の手にあるメスのような、切れ味鋭く病巣を切り取り、命を守り救う道具となるように、霊の導きを祈りましょう。 

 主よ、聖霊を通して私たちの心に主イエス・キリストの愛を満たしてください。知る力、見抜く力を身に着けて、私たちの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられますように。キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができますように。 アーメン