「わたしは正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着、また冠となった。」 ヨブ記29章14節

 ここにきてヨブは、「どうか、過ぎた年月を返してくれ、神に守られていたあの日々を」(2節)と、過去を回想しつつ、嘆きの言葉を語り始めます(2節)。それは、かつては神の栄光が、ヨブを守り導いていたからです。以前、「その日は闇となれ。神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな」(3章4節)と言っていました。彼がこうむった災いが、あまりに辛く厳しいものだったからです。

 だから、そんな光が与えられなければよかったのにと考えたのです。しかし、今ここに来て、ヨブは神のもとにいたときの光を喜びたたえています(3節)。神との交わりがいかに豊かであったかを、「わたしは繁栄の日々を送っていた」(4節)といい、それは、「乳脂はそれで足を洗えるほど豊かで、わたしのためにはオリーブ油が岩からすら流れ出た」(6節)というほどの豊かさだったと誇ります。

 その祝福ゆえに、ヨブは町中の尊敬と栄誉を受けていました(7節以下)。それは、与えられた豊かな恵みを私せず、身寄りのない子らを助け、助けを求める人を守り(12節)、見えない人の目、歩けない人の足(15節)、貧しい人の父となり、彼らの訴訟に尽力(16節)、不正を行う者の牙を砕き、その歯にかかった人々を奪い返しました(17節)。

 その振る舞いを、冒頭の言葉(14節)のとおり、「わたしは正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着、また冠となった」と言っています。この箇所を直訳すると、「わたしは正義を着、わたしの公正はわたしを上着や冠のように着た」となります。素直に読めば、「正義」(ツェデク:「義」)がヨブの上着で、「公正」(ミシュパート:「公正、公平」)が彼の精神を象徴するものということでしょう。

 正義を身に着けることについて、詩編132編9節に、「あなたに仕える祭司らは正義を衣としてまとい、あなたの慈しみに生きる人々は、喜びの叫びを上げるでしょう」とあります。また、イザヤ書11章4,5節に、「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」と記されています。

 正義と公正は、祭司や王が身に着けるべきものだということです。だから「上着」(メイール:「上着、外套(マント)、ガウン」)や「冠」(ツァーニーフ:「王冠、ターバン、帽子」)が言及されているわけです。ヨブは、正しく情け深い王のような者であったと言おうとしているのです。25節に、「わたしは嘆く人を慰め、彼らのために道を示してやり、首長の座を占め、軍勢の中の王のような人物だった」と告げています。

 そのことについて、「ソロモンの詩」といわれる詩編72編を見てみればよいでしょう。同1節に、「神よ、あなたによる裁き(ミシュパート)を王に、あなたによる恵みの御業(ツェダカー[ツェデクの女性形]:「義、正義、正しさ」)を王の子にお授けください」とあります。正しい王は、正義と公正をもって治めるので、貧しい者たちは暴虐から救われ(同4,12節以下)、その統治は、地を潤す豊かな雨のようだと言われます(同6節)。

 そこで、「王が太陽と共に永らえ、月のある限り、代々に永らえますように」(同5節)、「王の名がとこしえに続き、太陽のある限り、その名が栄えますように」(同17節)と、王の長寿を願う祈りがささげられます。

 ヨブ記29章18節にも、「人生の日数は海辺の砂のように多いことだろう」と、長寿への期待を抱いていたことが述べられています。それが、正義と公正をもって貧しい人々、弱い人々らを助けた者に、当然のごとく期待される報いというものでしょう。

 さらに、「わたしは水際に根を張る木、枝には夜露を宿すだろう。わたしの誉れは常に新しく、わたしの弓はわたしの手にあって若返る」(19節)と、14章7~9節で語っていた希望のイメージを、もう一度取り出しました。これを語ったのは、今の自分を顧みて、それは浅はかな夢だったと言いたいのでしょうか。それとも、「幹が朽ちて塵に返ろうとも」(14章8節)、改めて希望が与えられるということになるのでしょうか。

 もしも、浅はかな夢だった、もう夢など見るものではないということであるなら、いまだ3章の嘆きと同一線上にあるということでしょう。しかし、前述のとおり、彼はかつての光を喜びたたえることで、19節を単に浅はかな夢だったというのではなく、希望の将来が開かれる夢を見たいと考え始めているのではないでしょうか。

 本当に暗闇に光が差し込むように希望が見えるのか、まだ判然としていませんが、「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」(28章28節)という御言葉が示されています。それは、旧来の信仰に基づく知恵を、苦難を通して再認識したということでした。

 「わたしたちのうちに働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ書2章13節)というとおり、これまでヨブは、友らとの論争の中で、調停者、仲裁者を望み(9章33節)、天に自分の証人、弁護者、執り成す方を認め(16章19,20節)、そして、「わたしを贖う方は生きておられ」る(19章25節)と語っていました。その背後に、神の確かな導きがあるといってよいでしょう。

 しかしそれは、力づくでヨブの思いを変えさせたということではありません。神はヨブから遠く離れておられたのではないのです。ヨブとの交わりを控えておられたのでもないでしょう。彼が苦しみ、呻く声を側近くで聞いておられたに違いありません。

 「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」(詩編145編14節)と言われています。無理矢理腕を引っ張って立ち上がらせるというのではなく、時を待って、起き上がる力を授けて下さるのです。また神は、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」お方です(同30編6節)。

 神は、ヨブがこの苦しみをとおして、ヨブを真の信仰に導こうとしておられるのです。信仰こそ、神を喜ばせるものだからです。自分の感覚ではなく、神の御言葉に信頼し、自分の考えではなく、神の御心を悟るように、心に働きかけてくださるのです。

 天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。御国も力も栄光も、すべてあなたのものだからです。主の御心を悟り、その導きに従うことが出来ますように。 アーメン!