「その場所では呑み込まれたようでも、お前など知らない、と拒まれても、葦は、生き生きと道を探り、ほかの土から芽を出す。」 ヨブ記8章18,19節

 エリファズとヨブとのやりとりを聞いていたシュア人ビルダドが、次に口を開いて話し始めます(1節)。ビルダドのことについて、シュア人とは、アブラハムとケトラとの間に生まれた子で(創世記25章2節)、「東の方、ケデム地方」(同6節)、即ち、アラビア地方に住む者ではないかと考えられます。ビルダドは、本書だけに出て来る珍しい名です。名前の意味にも諸説あるようですが、正確なところはよく分かりません。

 ビルダドは、神は公正(ミシュパート)であり、正義(ツェデク)であるという伝統的な知恵を、問いとしてヨブに語ります(3節)。それは、ヨブの「わたしの正しさ(ツェデク)が懸っている」(6章29節)という言葉を、神の公正と正義に対する非難と、ビルダドが考えたからです。

 4節の、「あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ、あれらをその罪の手に委ねられた」という言葉は、子らの死がその罪にあったと明言し、それによって、ヨブの身を覆っているひどい皮膚病も、ヨブにその原因があることを仄めかしています。そこで、「あなたが神を探し求め、全能者に憐れみを乞うなら、また、あなたが潔白な正しい人であるなら」(5,6節)と、そこからどのように回復に道をたどればよいか、その道筋を示します。

 そうすれば、「あなたの権利を認めて、あなたの家を元どおりにしてくださる」(6節)のです。「あなたの権利を認めて」は、「あなたの義」(ツィドケハー)という言葉で、「神があなたの義の住まいを修復される」というのです。つまり、ヨブが主張する「わたしの正しさ」は、神を求め、その憐れみを乞い、潔白で正しく歩むときに、公正で正しい神によって回復されるというわけです。

 そのことについて、7節で、「過去(レーシート:「初め」の意)のあなたは小さいものであったが、未来(アハリート:「終わり」の意)のあなたは非常に大きくなるであろう」と、神の回復に与った結果、非常に豊かなものとなるので、今のヨブの苦しみは取るに足りないものとなると言います。

 そして、水辺に群生するパピルスや葦を取り上げ、それを譬えとして提示します(11節以下)。それは、詩編1編やエレミヤ書17章5~8節に示されているのと同様、水に示される神と神の御言葉に背いて生きる者と(12~15節)、神に信頼し、その御言葉に従って生きる者(16~19節)の有様を示しています。

 特に、冒頭の言葉(18,19節)で、神により頼む者は、妨害や拒絶に遭遇しても、なお希望に生きることが出来ることを示し、7節の、「未来(アハリート)のあなたは非常に大きくなるであろう』というイメージを、「葦は生き生きと道を探り、ほかの土から芽を出す」(19節)と言います。

 「生き生きと道を探り」は、「ほかの土から芽を出す」に合うように考えられた訳語ですが、「これが彼の道の喜びである」という言葉遣いです。また、「ほかの土から芽を出す」は、「後で(アヘール)塵(アーファール)から芽を出す」という言葉です。

 ビルダドが拠って立っているのは、「過去の世代に尋ねるがよい。父祖の究めたところ(ヘーケル:「調査、探究、探し出されたもの」の意)を確かめてみるがよい」と8節で語っているとおり、過去から積み重ねられて来た経験によって導き出された知恵です。

 エリファズも、「これが我らの究めた(ハーカール)ところ。これこそ確かだ。よく聞いて、悟るがよい」(5章27節)と語っていました。当然のことながら、そこには、耳を開いて聞くべき知恵が多くあることを、私たちも知っています。そして、そのことはヨブも認めるところです(9章2節参照)。

 確かに、神に対して過ちを犯している者は、神の裁きを免れることは出来ないでしょう。けれども、人生の辛酸を嘗めている者がすべて、神に対して過ちを犯した者であると断言してよいでしょうか。今ヨブが苦しんでいるのは、この問いに対する明確な答えが与えられないからです。つまり、このような苦しみを味わわなければならない理由、その根拠を、ヨブは未だ見出だすことが出来ないのです。

 前にヨブがエリファズに対して、「絶望した者の言うことを風にすぎないと思うのか」と語っていました(6章26節)。自分の言葉が、中身のない空しいものだと思うのか、だから耳を傾けようとしないのかという意味ですが、ビルダドはそれを取り上げて、「いつまで、そんなことを言っているのか。あなたの口の言葉は激しい風のようだ」(2節)と言っています。まさに彼は、ヨブの言葉に聞くべき内容がないと考えているわけです。
 
 けれども、だからといって聞き流してもおけませんでした。それは、その風が激しいからです。自分が無意味だと考えていることが、自分自身の思想や人生哲学を吹き飛ばしてしまいそうな力で攻撃して来ていて、ここで黙っていてヨブの考えが通れば、自分がこれまで築いてきたものが崩れてしまうとでも考えているのでしょう。だから、ビルダドも激しい言葉でヨブに応酬し、自分自身を保とうとしているわけです。

 思い出してみると、四方から吹き付けた大風で、ヨブの子らが宴会を開いていた家が倒れ、そこで皆召されました(1章19節)。それによって、ヨブの人生が覆されたのです。大切なものを失い、自らも苦しみを味わい続けています。

 ヨブが語る言葉で、自分の人生が覆されてしまうように感じるということは、ヨブがこの苦しみから逃れる道を探る必要があるのと同様、ビルダドも、今ヨブが味わっている苦しみを通して、新しい神の恵みに目を開く必要があるわけです。自分で自分の立場に固執するのではなく、ビルダドこそ、おのれを空しくして、神に聴かなければならないのではないでしょうか。
 
 そうすれば、「あなたが神を尋ね求め、全能者に憐れみを乞うなら、また、あなたが潔白な正しい人であるなら、神は必ずあなたを顧み、あなたの権利を認めて、あなたの家を元どおりにしてくださる。・・・なお、あなたの口に笑いを満たし、あなたの唇に喜びの叫びを与えてくださる」(5,6,21節)という、新しい神の恵みに酔うことが出来るのです。

 主イエスは、「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言われました(マルコ2章22節)。私たちも、常に新しい神の恵みに目が開かれた者でありたいと思います。

 主よ、ビルダドは苦しみの中にいるヨブを慰めようとしていたはずなのに、激しい言葉の応酬により、かえって傷口を広げるような結果を招いてしまっています。ビルダド自身がその口に笑いを満たし、唇に喜びの叫びを与えてくださる主の新しい恵みを絶えず味わっていないからです。主よ、私たちを憐れみ、常に恵みの下に置いてください。 アーメン