「忘れないでください。わたしの命は風に過ぎないことを。わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。」 ヨブ記7章7節

 ヨブの人生観は、もともと明るいものではなかったようです。最初の発言の際に、「恐れていたことが起こった。危惧していたことが襲いかかった」と語りました(3章25節)。幸せな日々が奪われる不安、自分の身に思いが得ない病が襲いかかる恐れを持っていたわけです。

 今ここでは、「この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。傭兵のように日々を送らなければならない」と言います(1節)。つまり、望むと望まざるとに拘わらず、上官の命令に従って危険な戦地に追い遣られ、しかも、その苦しい務めによって得られる報いは、辛く悲しい夜だというのです(3節)。

 「兵役」(ツァーバー)という言葉は、14章14節とイザヤ書40章2節で、「苦役」と訳されています。ヨブの苦難が、バビロン捕囚の苦しみと、用語において同じ扱いになっているのは、興味深いところです。そして、イザヤは、その苦役が終わりのときを迎え、慰めを受けると告げているのに対し、ヨブは、この苦難がいつ終わるのか、自分では皆目見当もつかないのです。

 だから、疲れ果てて寝床に入っても、苦痛で安眠出来ず、いらだちながら夜明けを迎えることになります(4節、13,14節)。そして、そのような苦難の連続で消耗戦を戦っている内に、あっという間に一生を終えてしまわなければならないという空しさを覚えています(6節)。

 6節の「望み」(チクワー)という言葉には、「希望、期待、絆、縄」といった意味があります。自分の人生という機織り機は目まぐるしく動き、糸がなくなれば止まる。自分には、もう希望という糸が尽きてしまった。空しく空回りし、そして止まるだけ。なんという空虚な人生観でしょうか。
 
 そして、その苦しみ、その空しさを与えているのが、3章17節で「神に逆らう者」(ラーシャー)と呼んでいた「悪人」であり、同18節で「追い使う者」(ナーガス)と言った「圧政者」であり、そして、同19節で奴隷に苦役を与える「主人」(アドーン)であるところの神だというわけです。ここに、ヨブのやりきれない気持ちが、如実に示されています。
 
 ヨブはもう一度神に向かって目を上げ、冒頭の言葉(7節)のとおり、「忘れないでください。わたしの命は風に過ぎないことを」と叫びます。苦しみから逃れるために、先には死を願ったヨブですが(6章8,9節)、ここでは、今すぐに憐れみをかけてくださらなければ、手遅れになります、このまま神を呪って死にますよと言っているかのようです。

 ここで、瞬く間に、幸いを見ないまま終りを迎え、神が目をかけてやろうかと思い直す頃には、もはや影かたちもなくなっていると訴えるのは(8,21節)、ヨブが本当に願っているのは、生きるか死ぬかということではなく、生きるにしても死ぬにしても、神の恵みに与り、心に安息を持つことが出来るかどうかということなのでしょう。

 ヨブは、ひとときたりとも神を忘れたことがありません。しかし、今のヨブには、神が自分のことを忘れてしまっているかのように思われるのです。「わたしは海の怪物なのか竜なのか、わたしに対して見張りを置かれるとは」というのは(12節)、神がヨブを、黙示録12章に出てくる「竜」のような危険な存在と見なし、闇の中に閉じ込めて、いつも見張っておかなければならないと考えておられるのかという問いです。

 ヨブは、勿論そのような存在ではありません。神の恵みを失うなら、一日たりとも生きていくことの出来ない、弱い存在です。そうならないよう、神を畏れ、ひたすら悪を避けて生きて来ました(1章1節など)。だから、もう一度思い出して欲しいのです。苦しみの中にいる自分を憐れみ、救って欲しいのです。

 17節に、「人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか」と記されています。詩編8編5節にも、「人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」という言葉があります。「人の子」は、「土の子(ベン・アーダーム)」という言葉です。即ち、土くれにすぎない小さな存在に目を留めてくださる神の恵みに、驚きつつ賛美をささげているのです。

 しかしながら、ここでヨブは、苦しみを受けなければならない理由が自分の罪、過ちにあるというなら、なぜそれを見逃してはくださらないのか、それは、神の目に小さいことではないのかと言っています。ヨブ自身には、どの行為が神に背いた罪、過ちと見なされているのか、思い当たる節があるわけではないと思います。

 「わたしが過ちを犯したとしても、あなたにとってそれがなんだというのでしょう」(20節)と言っているように、たとい何かあったにしても、それはとても小さなことであって、これほどの苦しみを受けなければならないような大罪を犯した覚えはないということです。

 そこで、「なぜ、わたしの罪を赦さず、悪を取り除いてくださらないのですか」と神に尋ねています(21節)。これだけ苦しめたのだから、もういいでしょう、その手を放してくださいという、苦しみを耐え難く思っている表現だと思われます。「今や、わたしは横たわって塵に返る」は、土の器が徹底的に打ち砕かれ、死んで塵灰になってしまうということでしょう。

 だから、「あなたが探し求めても、わたしはもういないでしょう」というのは、手遅れになる前に、締め上げる手を放してくださいと願うヨブの思いが込められています。この21節の言葉は、義なる神は罪を赦してくださるお方、悪を取り除いてくださるお方であると、ヨブが理解し始めているか、そうでなくても、そのように期待し始めているのではないかというように思います。ここに、新約の光が既に差し込んで来ているようです。

 神は勿論、ヨブを忘れてはおられはしません。髪の毛の数を一本残らず数えるほどに、私たちに目を留めてくださるお方です(マタイ10章30節)。ヨブの訴えを無視し、苦しみの中に放っておられるはずもありません。けれども、ヨブとの、この不幸な出来事が訪れる以前の関係をそのまま維持しよう、そこに戻ろうとしておられるのでもないでしょう。これまで以上の、さらに親密な関係を築こうとしておられるのだと思います。

 今日、「出口のないトンネルはない。トンネルは、目的地まで最短距離を進むためのもの。人生トンネルの期間があったら、それは神様に出逢う最短距離だ」という言葉を聞きました。暗闇に光、地獄で仏という言葉があるように、この言葉の真実を味わう経験をする瞬間がやって来るということでしょう。

 どんなときにも御霊の助けと導きに与り、主の恵みと慈しみを信じて進ませて頂きましょう。

 主よ、私たちはあなたの憐れみなしに、希望を持ち、平安に過ごすことは出来ません。あなたこそ、希望の源であり、平和の源なるお方だからです。常にあなたの慈しみの御手の下におらせてください。恵みの主から離れることがありませんように。そうして、御名が崇められますように。 アーメン