「見よ、幸いなのは、神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。」 ヨブ記5章17節

 5章にも、ヨブの友エリファズの言葉が続きます。8節以下には、エリファズがヨブの立場であればどうするか、ということが記されています。彼は、「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう」(8節)と言います。

 苦難の中にも神の愛が込められていて、神は人の滅びではなく、救いを望んでおられること、だから、冒頭の言葉(17節)のとおり、神の懲らしめに反発しないで、喜んで神の戒めに従い、幸いを得なさいと勧告しているのです。苦難の後には神の救い、神の恵みがついてくるとも言います(18,19節)。苦難には意味があり、そこから学べという主張は、聖書の中に繰り返し登場して来る思想です。

 人はなぜ苦しむのでしょうか。御言葉に背き、善悪の知識の木の実を食べてしまったアダムに対し、神が、「お前のゆえに、土は呪われたものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。土に帰るときまで。お前がそこからとられた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」と言われました(創世記3章17節以下)。

 つまり、アダムの子孫である私たちは、苦難に遭うのは、避けられない運命なのです。しかし、その苦難をどう見るかによって、生き方は様々に分かれるということになります。

 ヤコブ書5章13節に、「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい」とあります。私たちは、平穏無事なときには、あまり熱心に祈りません。苦難に遭うと、その苦しみからの救いを真剣に祈るでしょう。神は苦難を通して、私たちを祈りの世界、神と深く交わる世界へと導いておられるわけです。

 ローマ書9章19節以下に、焼き物師(陶器師)と粘土の譬えを用いて、神が私たちを神の憐れみを盛る器として、栄光を与えようとしておられるとあります。陶器師が自分の心にかなう器を造るために、山から土を切り出し、砕いてしばらく水に沈め、不純物などを取り除いてよく練り、それをろくろで整形し、上薬をかけて高温の火で焼きます。

 これら一つ一つの行程は、そのように取り扱われる粘土にとっては、大変な苦痛かも知れません。けれども、それを通して、美しい陶器が作られるのです。

 同様に私たちも、この世から取り出され、御言葉の恵みに入れられ、キリストの血潮で罪が清められ、イエス・キリストを着せられ、聖霊の火に燃やされて、神の憐れみの器とされるのです。

 主イエスは、神の御子であるにも拘らず、多くの苦しみを受け、その苦しみを通して従順を学ばれました(ヘブライ書5章8節)。これは、ゲッセマネの園でひどく恐れて悶え、祈られたこと(マルコ14章33,35節以下)、また、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(同15章34節)と十字架上で叫ばれた、あの苦しみを指し示しています。

 この主こそ、私たちすべての者の大祭司なのです。私たちと同じ試練を味わってくださったので、私たちの弱さを知っておられ、時宜にかなった助けをお与えになるのです(ヘブライ書4章15,16節)。だから、主イエスの軛は負いやすく、その荷は軽いのです(マタイ11章29節)。

 第二回伝道旅行中、フィリピの町でパウロとシラスが無実の罪で鞭打たれ、投獄されるという苦しみに遭いましたが(使徒言行録16章23節)、真夜中に彼らはその獄舎で賛美を歌い、神に祈りをささげると(同25節)、不思議なことが起こり(26節以下)、その結果、獄舎の看守家族が救いに与ることになりました(同33節)。パウロがそこで賛美と祈りをささげたのは、彼らの心に主イエスがはっきりと刻まれていたからでしょう。 

 その上、聖霊が、どう祈ればよいかも分からない弱い私たちの内にあって、私たちのために呻き、執り成してくださいます(ローマ書8章26節)。そうして、神は私たちのために、あらゆることがプラスとなるように働いてくださるというのです(同8章28節)。それが、苦難をも誇り、喜ぶと語っているパウロの信仰の核心です(同5章3節)。

 ヘブライ書12章5節に、「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない」(12章5節)と語られ、神の子として、神の鍛錬を軽んじないこと、懲らしめられても力を落とさないこと、それによって鍛えられ、子として取り扱われるのであると教えています。

 「だから、萎えた手と弱くなった膝をまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒されるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」(同12,13節)。

 主よ、人に説くことは出来ても、自分自身は失格者になってしまう弱く愚かな私たちを憐れんでください。苦難にあって萎えた手と弱くなった膝を強く、まっすぐにしてください。自力で信仰を守ることなど出来ません。御言葉の前に謙り、その導きに素直に、喜びをもって従うことが出来ますように。そうして御名を崇めさせてください。 アーメン