「神を畏れる生き方があなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことがあなたの希望ではなかったのか。」 ヨブ記4章6節

 ヨブが口を開いて自分の運命を呪い、神はなぜ自分に死を賜らないのかと嘆き訴えるのを聞いて、ヨブの友人の一人、テマン人エリファズは黙っていることが出来なくなりました。テマンはエサウの孫、エリファズはエサウの子の名前です(創世記36章10,11節)。ということは、エリファズは、パレスティナ南のエドムの地に住む者ということなのでしょうか。
 
 エリファズは、何とか友のヨブを力づけ、励ましたかったのでしょう。そこで、持てる知識や経験などを総動員しつつ注意深く言葉を選び、「あえてひとこと言ってみよう。あなたを疲れさせるだろうが、誰がものを言わずにいられようか」と話しかけました(2節)。

 エリファズは、かつて、ヨブ自身が悩み苦しんでいる多くの人々を諭し、力づけて来たことを思い起こさせます(3,4節)。ここでエリファズが思い起こさせようとしている、ヨブが他者を諭し励ましていた内容とは、宗教的な経験に基づく正統な知恵に歩めということ(6節以下)、そして、神の告げられた特別な言葉に耳を傾けるということでしょう(12節以下)。

 そこで、エリファズもヨブの手法に倣って、彼に励ましを与えようとしているのです。先ず、宗教的な経験に基づく正統な知恵ということで、冒頭の言葉(6節)のとおり、「神を畏れる生き方があなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことがあなたの希望ではなかったのか」と語ります。ヨブが頼みとしていた神を畏れる生き方や、望んでいた完全な道を歩むことで、それはイスラエルの民の頼みであり、希望であることを示しています。

 そして、「わたしの見て来たところでは、災いを耕し、労苦を蒔く者が、災いと労苦を収穫することになっている」(8節)と、自分の観察して来たところを語ります。つまり、人が蒔く種によって収穫する実が決まるということで、この知恵が真実であるから、災いをもたらし、人に労苦を与えるような者は、神の裁きを受けるというのです(9節以下)。

 エリファズの言葉に、ヨブを責める思いが全くないかと言われれば、そうとも言い切れません。「神の息によって滅び、怒りの息吹によって消え失せる」(9節)というのは、ヨブの子らを死に追いやった大風を思わせ(1章19節)、その原因がヨブの子らにあると言っているようなものだからです。それは、ヨブに臨んだ数々の苦難は、ヨブの蒔いた種に問題があると仄めかすことになります。

 つまり、神を畏れ、正しく歩んで来たのであれば、何も心配しないで、その苦難を乗り越えるべく、その道を守り通すべきだ。正しい歩みに対する神の報いに希望を置くべきであって、その生き方を忘れて何に頼り、どこへ行こうとしているのか。どこで間違ってしまったのかというのです。

 道に迷っている人は、自分が今どこにいるのか、どちらに向かって行けばよいのか、分らなくなっています。分からないまま動き回るので、ますます泥沼にはまり込んだようなことになってしまいます。自分の居場所が分かり、そして進むべき方向が定まれば、やがて目指すところに辿り着くことが出来ます。

 確かに、ヨブが帰るべきところは、神を畏れ、その御言葉に従って生きる生活です。エリファズが語る通り、かつては、ヨブはそれを頼みとしていたのです(6節、1章1節)。そして、神はヨブに豊かな恵みを与えておられました(1章2節以下)。持てるものをすべて失い、苦しみが襲いかかって来たときに、すぐに信仰を失ってしまうようなことはありませんでした(1章21節、2章10節)。

 けれども、苦しみが続く中で、次第に分らなくなってしまったのです。それは、彼が神を畏れ、神に従うことをやめたから、苦しみを受けたというのではなく、信仰生活を守り、神に従って歩んでいたにも拘わらず、苦しみの穴に落ち込んでしまったからです。そして、どうすればその穴から這い出ることが出来るのか、皆目見当もつかないからです。

 エリファズは、ヨブの苦しむ有様を見るに忍びなかったのでしょう。苦しみの中で自分の運命を呪い、神への不信を口にするヨブの言葉を聞くに堪えなかったのでしょう。そう思うのは、エリファズ一人ではありません。私たちも皆そうです。人を慰め、励ましたいと思うのは、苦しむ姿を見ていられないのです。立ち直った姿を見て、自分も安心したいのです。

 それが悪いということでもありませんが、しかし、苦難の中にいる人の苦しみをあるがまま理解しようとするなら、解決を焦らず、先ずその人の語る言葉にじっと耳を傾け、苦しみの共感に務める必要があるでしょう。

 三人の友が初め七日七晩、黙ってヨブの傍らに座っていました(2章11節以下、13節)。余りの厳しい状況に言葉がなかったわけです。苦しむヨブに徒に言葉をかけることなく、沈黙して共に座している友らのゆえに、彼の内にあった真実な叫び、苦しい思いが吹き出すかたちになったのです。ヨブは、三人の友がその苦悩を受け止め、共感してくれることを望んでいたのでしょう。

 そして、苦しみ、呻きに共感する友を得ることが出来れば、その時、彼は神の慰め、励ましを受けることが出来るでしょう。私たちにとって、誰よりも、神の御子・主イエスが私たちに寄り添い、私たちの声に耳を傾け、共に涙してくださいます。「慈しみ深き友なるイエスは、我らの弱きを知りて憐れむ。悩み悲しみに沈める時も、祈りに応えて慰め給わん」(新生讃美歌431番2節)と歌うとおりです。

 「だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ書4章16節)ということですが、しかし、ここであらためて、慰めを受けるため、助けをいただくために、神を畏れるということになれば、それは、サタンの「利益もないのに(自発的に)神を敬うでしょうか」(1章9節)という問いが、的をついていることになるのではないでしょうか。ヨブの戦いが続きます。

 天にまします我らの父よ、願わくは、神を畏れる生活が守られますように。願わくは、我らを試みに遭わせず、悪しきものから救い出してください。国も力も栄光も、すべてあなたのものだからです。全地にキリストの平和と導きが常に豊かにありますように。 アーメン