「手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません。」 ヨブ記2章5節

 3節で主なる神が、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と、1章8節で語られたのと全く同じ言葉でサタンにヨブのことを言われた後、「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ」と、サタンの攻撃にもかかわらず、敬虔に過ごすヨブのことをさらに誇らしく思っている発言をしておられます。

 即ち、一瞬にしてすべての財産を失ったばかりか、子どもたちをも奪い去られるという苦難を味わいながら、罪を犯さないヨブを見て、ヨブが神を畏れ敬うのは、神がヨブとその一族、全財産の周りに垣根を設けて守っているからだといったことこそ(1章10節)、まさに理由のないことで、神がヨブを、「地上に彼ほどの者はいまい」と称賛するのは(1章8節)、確かに理由があることだろうというわけです。

 それに対してサタンは、「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです」(4節)と応じます。「皮には皮を」というのは、何かの諺と考えられていますが、その意味は明らかではありません。ただ、「皮には皮を」と、「命のためには全財産を」との対比で、二番目の「皮」と「全財産」が対応していると理解されます。

 1章10節の、神がヨブとその一族、全財産の周りに垣根をめぐらしているという言葉遣いで、ヨブには、幾重にも彼を覆っている皮があるということ、子どもたちや全財産というのは、ヨブにとって、彼を守る外側の「皮」だろうということが示されます。

 そして、ヨブ自身にも神の垣根がめぐらされていて、彼の命は最も内側の「皮」の中に守られているということ、その皮のためには外側の皮を、彼の命のためには全財産をという表現になっているのではないでしょうか。

 そこで、最後の守りである皮を取り、冒頭の言葉(5節)のとおり、神が手を伸ばして骨と肉に触れられれば、もはや無垢でいることは出来ず、神を呪うに違いないと告げます。

 それを聞いた神は、「お前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな」と、サタンがヨブを試すことを許されます(6節)。そこでサタンは、ヨブに手を下して、全身をひどい皮膚病にかからせました(7節)。その攻撃にどのようにヨブが応じるのか、注目されます。

 ヨブは、灰の中に座り、素焼きのかけらで体中かきむしります(8節)。「灰の中に座る」というのは、エステル記4章3節に、「灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆にくれた」という言葉があり、上着を裂き、粗布をまとうなどの形式と並んで、悲嘆を表現する方法ということではあります。

 他方、重い皮膚病を患う人が出ると、町の人々は彼を外のゴミ捨て場に追放することが常だったと言われ、ヨブもそのような目に遭わされた、つまり、ひどい皮膚病を患った上に、屈辱的な振る舞いをされたということかも知れません。 

 そして、「素焼きのかけらで体中をかきむしった」というのは、頭をそるという以上の、悲しみを表現する極端なやり方でしょうか。あるいはまた、ひどい皮膚病のかゆみに、強く激しい刺激で対抗しているということでしょうか。

 つまり、ヨブの行動は、1章のときとは変化し、その内容をはっきり把握することが出来ない、あいまいなものになって来ています。 

 そこで、ここまで一度も口を開くことのなかったヨブの妻が、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(9節)という発言をします。この発言は、ヨブの妻自身の思い、おのが腹を痛めて産んだ子らを一度に失った苦しみに加え、皮膚病で苦しむ夫を傍らで見ながら、どうしてやることも出来ないので、神を呪って死にたいと、彼女自身が考えていることから、発せられているのではないかと思われます。

 ただ、サタンがヨブの妻を用いて、神を呪って死ぬようにヨブを唆しているということも出来そうです。というのは、サタンが、「手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい」と言いましたが、ヨブの妻はヨブにとって、「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創世記2章23節)というべき存在でしょう。ヨブの骨と肉に触れることは、彼女の骨と肉に触れることでもあったのです。

 ヨブの苦しみは神御自身の苦しみではないかと、昨日学びましたが、ヨブの妻の苦しみは、ヨブの苦しみを示しています。ヨブは、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言います(10節)。

 ここで、「お前まで愚かなことを言うのか」とヨブは語っていますが、「お前まで」ということは、誰かが彼に「愚かなこと」を言ったということを表しています。それは誰なのでしょう。あるいは、彼の内なる声が、彼にそう囁いたのではないでしょうか。

 また、1章21節では、「わたしは」と、自らの思い、その信仰を明確に表現しました。ここでは、「わたしたちは」と、妻をその協力者として立たせ、「不幸もいただこうではないか」と、決意を言い表すような問いかけの言葉で終わっています。

 ヨブの言葉の後に、「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことはしなかった」(10節)と、彼の振る舞い、言葉に対する評価が記されています。1章22節の、「このようなときにも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」というのと、特に変化はないようです。

 ただ、「唇をもって罪を犯すことはしなかった」ということは、唇ではなく、彼の心中はいかなるものか、彼の骨と肉はなんといっているのか、というところは、彼の態度同様、あいまいになって来ているということを示してはいないでしょうか。

 先に触れた、ヨブの骨と肉なるその妻の、「どこまでも無垢でいるのですか」(9節)という発言は、あなたはずっと敬虔に振る舞い続けるのか、今でも神をたたえるのか。それは無駄なことだ。神を呪って死になさいということでしょう。

 しかし、ある註解書に、「あなたはまだ一人で自分の無垢を主張するのですか。自分の完全さ、汚れのなさを主張し、それを保ち続けようとすることで、自分は神の外に、神と無関係に立っているということになりはしませんか。その無垢な自分を苦しめる神を呪うことになりはしませんか。それは自分の死を意味することではありませんか」という読み方もできるという提案がありました。

 ただ、そう読むことによって、ヨブの妻の発言の内容、その意図も、すべて明確ということにはならない部分があるようです。ヨブは妻の発言を、「愚かなこと」と断じていますが、しかし、註解書のような別の読み方をすると、これを「愚か」と言えるのかということにもなります。

 私たちの敬虔さ、汚れのなさは、どんな不幸に襲われてもそれに動じないでいる様子を見せ続けること、伝統的な信仰告白を唱え続けることで保たれていくものでしょうか。それとも、自らそれを守ろうとすることを放棄し、今自分が置かれているところをありのままに受け止め、受け入れることで守られるものでしょうか。それとも、さらに別の道が開かれるのでしょうか。 

 私たちがヨブのような苦しみを受けたとき、どのように考え、どのように振る舞い、何を語るでしょうか。伝統的な信仰告白に立ち、賛美を続けるという真似をすることは出来そうにありません。苦しみ悩みを主に訴え、しばしば不信に陥り、人や神を呪うかも知れません。そんな弱い自分であることを、いやというほど思い知らされることでしょう。

 ゆえなく神を敬うことのできない者であることを自覚し、その私を造られた神の憐れみにひたすら依りすがり、あるがまま神の御手に委ねて歩みたいと思います。

 主よ、私は自分の命を守るためなら何でもする自己中心的な臆病者です。キリストの血潮と聖霊の力による以外、自分の力で確信を持ち続け、平安に生きる者にはなれません。主の御名によって絶えず正しい道に導き、どんなときにも共にいて、その鞭と杖をもって、わたしを力づけてください。御霊の導きに与り、主に従う者となることが出来ますように。 アーメン