「大祭司エルヤシブは、仲間の祭司と共に羊の門の建築に取りかかり、それを奉献し、扉を付けた。次いでハンメアの塔まで、更にハナンエルの塔まで奉献した。」 ネヘミヤ記3章1節

 「エルサレムの城壁を建て直そうではないか」(2章17節)というネヘミヤの言葉で、「早速、建築に取りかかろう」(同18節)と、ユダの人々、祭司や貴族、役人たちはこの企てに奮い立ちました。3章には、城壁の修復工事を担当した大祭司をはじめ、様々な職業、地域の人々が登場します。それは、いかにイスラエルの民が城壁再建のために一致団結、協力し合ったかということを証明する内容です。

 創世記11章6節に、「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」という言葉があります。一致しているとき、何でも成し遂げることが出来るというのです。

 しかし、もともと民が一致していたわけではありません。城壁の修復に立ち上がろうとしていたわけでもありません。ハナニの報告を受けたネヘミヤが、祈りに祈って神の導きを受けたからこそ、この働きが進められているのです(1章4節以下、2章4,8,12,20節)。ということは、民が一つとなって工事にあたっていることも、神の導きということになります。

 ただし、5節後半に、「その貴族たちは彼らの指導者たちの作業に服そうとしなかった」と記録されており、団結を乱す者たちがいたことが分ります。ごく一部ながら、そのような人々もいたというのは、残念です。

 彼らが従おうとしなかった理由として考えられるのは、サンバラトをはじめとする反対者、また周辺諸国の攻撃を恐れたか、「貴族」という身分、立場が他の者と同じ作業に服することを恥ずべきことのように考えたか、あるいはまた、ネヘミヤの指導に従うのが面白くなかったというようなことでしょう。しかしながら、彼らがその作業に服そうとしなかったことは、ネヘミヤにではなく、神に従おうとしなかったということになるのではないでしょうか。

 工事従事者リストの冒頭に出てくるのが、大祭司エルヤシブとその仲間の祭司らで(1節)、彼らは羊の門の建築に取りかかり、それを奉献しました。羊の門は、エルサレムの北東角に位置する門で、そこから、ハンメアの塔、更にハナンエルの塔までを奉献したということは、羊の門から西側へ、反時計回りにエルサレムの城壁を築き直した人々のリストが記録されていることになります。

 1節の「羊の門」から6節の「古い(エシャナ)門」までが都の北側、7節以下、「広い壁」(8節)から13節の「谷の門」までが西側、14節の「糞の門」が南、そして15節の「泉の門」から29節の「東の門」までが東、そして30節以下、32節の「羊の門」までが再び北側の場所になっています。

 南が小さいのは、逆三角形の形になっているからです。そこに「糞の門」(14節)があります。ここは、ヒンノムの谷に通じるところで、ゴミ、廃棄物、糞の処理に使われたので、その名で呼ばれたようです。

 リストの最初に記されていた「羊の門」(1節)は、ベニヤミン門とも呼ばれています(エレミヤ書20章2節など)。この門の傍らに羊を売り買いする市場があったことや、その羊がこの門を通って神殿に引き入れられたことから、そのように呼ばれるようになったようです。

 また、ヨハネ福音書5章2節によれば、この門の近くにベトザタ(口語訳:ベテスダ)と呼ばれる池がありました。この池は、羊を洗い清めるためのもので、おそらくヘロデが第三神殿を造営するときに設けた、周囲を柱廊で囲まれている、二つ並んだ大きなプールです。

 羊の門を祭司たちが再建したというのは、意味深いものです。羊は、いけにえとして神に捧げられるものです。建て直された神殿の近くにあり、神にささげる羊の通る門が祭司たちの手で建て直されるというのは、神への礼拝の道筋が整えられることにつながります。そしてそのことが、大祭司なる主イエスが私たちのために自らをいけにえの小羊として捧げられた十字架の出来事につながっているのです。

 主イエスは、「わたしは羊の門である」(ヨハネ福音書10章7節)と仰り、続けて、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」と言われました(同9節)。主イエスは、羊に豊かな命を与えるために来られたのです(同10章10節)。

 その主を信じ、御言葉を聴いて従う者は、ベトザタの池で長患いの男性の病が癒され、立ち上がることが出来たように(同5章5節以下)、罪赦され、新しい力を得て立ち上がることが出来ます。

 世の罪を取り除く神の小羊として自らをささげられた私たちの大祭司なる主イエスを信じ、主の御言葉に聴き従う信仰生活をしっかりと築きましょう。

 主よ、イスラエルの人々が神の導きに従って、各々持てるもので城壁の修復に協力したように、主に心動かされた者が、賜物は違い、務めは違い、働きは違いますが、キリストの御名のもと一つとなって主の業に励み、主の栄光を表わすことが出来ますように。 アーメン