「『どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにして下さい』。この時、わたしは献酌官として王に仕えていた。」 ネヘミヤ記1章11節

 今日から、ネヘミヤ記を読み始めます。ネヘミヤの人となりについて、ハカルヤの子で(1節)、アルタクセルクセス王の献酌官(11節)ということ以外の情報はありません。王に酌をする係ということですが、主な任務は王の護衛という、王の信任厚い大切な務めでした。側近中の側近で、ナンバーツーの位置にいると考える註解者もいます。豊臣秀吉の茶頭を務めた千利休のような立場といってもよいでしょうか。

 ときは、「第二十年のキスレウの月」(1節)で、「第二十年」は、2章1節の「アルタクセルクセス王の第二十年」と同じ、紀元前445年のことと考えてよいでしょう。そして、「キスレウの月」は、ユダヤの暦で9月、今日の11~12月のことです。

 ペルシャの首都スサにいたネヘミヤのもとに、ユダからハナニがやって来たことでした。ハナニに関して、「兄弟の一人」と言われますが、後に、エルサレムの行政を託されていて(7章2節)、親族というより、ユダヤの同胞でエルサレムの住民の代表といった立場の人物でしょう。

 ネヘミヤが、捕囚を免れてユダに残っている人々とエルサレムの様子をハナニに尋ねると(2節)、ハナニは、「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです」と答えました(3節)。

 ユダヤの人々が捕囚から帰還して既に100年近く経過しているのに、「捕囚を免れて残っているユダの人々」について尋ねたということは、帰還したユダヤの人々と捕囚を免れて残っていた人々との間に抜き差しならない壁があって、再び一つの民となることが出来ないようになっているのではないかと想像されます。

 それはエレミヤが、エレミヤ書24章8節以下で、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする。・・・わたしは彼らに剣、飢饉、疫病を送って、わたしが彼らと父祖たちに与えた土地から滅ぼし尽くす」と預言していた言葉が成就したようなものです。

 また、「城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです」ということが、バビロンによるエルサレムの破壊ということであれば、そのことを知らないネヘミヤではないと思います。しかしながら、それから140年余りが経過し、捕囚から帰った人々がエルサレムで新しい生活を始めてかなり経つというのに、いまだに「恥辱を受けている」ような有様というのは、思ってもみなかったことでしょう。

 ただ、エズラ記4章6節以下の、エルサレムの都の再建について反対するアルタクセルクセス王への書簡が、この時期のものであると考えられるので、イスラエルの民が修復した城壁がサマリア人らに破壊され、工事再開がアルタクセルクセス王に禁じられるなど(同17節以下)、再建は全く覚束ないという状況だったと思われます。 

 それらのことを聞いたネヘミヤは、「座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげ」(4節)ました。この姿勢は、祭司エズラが同胞の異民族の娘との結婚を知って示した悔い改めに通じます(エズラ記9章3節以下)。残っていた人々の不幸と城壁が打ち破られままにされているのは、イスラエルの罪だと考えているわけです。

 しかも、6節後半に、「わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました」と告白していることから、ネヘミヤは、エルサレムに住む者たちの罪だけを考えているわけではありません。「わたしも、わたしの父の家も」、その犯罪者のリストから漏れてはいないのです。そしてこのことも、エズラの祈りと共通しています(エズラ記9章6,7,10節など参照)。

 ネヘミヤが献酌官の地位に上るのは、容易ではなかったでしょう。そのために、あるいはペルシアの習わしに従い、形式的にペルシアの神の前に膝をかがめることさえあったかも知れません。また、彼の家は、バビロンから帰還する群に加わっていません。エズラの帰国の時にも、同行しませんでした。ペルシアでのその地位と豊かな生活を捨ててまで、エルサレムに行かねばならないとは考えなかったのでしょう。

 だから、エルサレムの城壁が破壊されたままになっているというのは、そのまま、自分自身の信仰の姿を現わしていると、ネヘミヤは考えたのかも知れません。それを示されたからこそ、神の前に自らの罪を言い表し、モーセの戒めを引き合いに出して(8,9節、申命記30章1~4節)、神の憐れみを乞うのです。神の愛と恵みに訴え、建て直しを願うのです。

 私たちの信仰生活、神との交わりの門はどうなっているでしょうか。私たちの心を守る城壁、霊の武具はきちんと整備されているでしょうか。御言葉の剣は磨かれ、切れ味鋭く研がれているでしょうか。信仰の祈りが、芳しい薫香として、神の御前にささげられているでしょうか。

 絶えず神の御言葉に耳を傾けましょう。神の御旨に従いましょう。神の愛と恵みに応えて、まず第一に神の国と神の義を求めて生きる者として頂きましょう。

 主よ、エリヤはカルメル山上で壊された主の祭壇を修復しましたが、実に壊れやすいのは祈りの祭壇です。私たちの信仰がいつも生きて働くものであるように、御言葉と祈りによる霊的な交わりが常に豊かでありますように。私たちの耳を開き、目を開き、心を開いてください。御声を聞くことが出来ますように。御業を拝することが出来ますように。御足跡に従って歩ませてください。 アーメン