「祭司とレビ人は共に身を清めていたので皆清く、捕囚の子ら皆のため、また彼ら自身のために過越のいけにえを屠った。」 エズラ記6章20節

 ユーフラテス西方の長官タテナイらの調査以来の書簡を受けて(5章6節以下)、ダレイオス王の命令でバビロンの記録保管所が調べられ(1節)、メディア州エクバタナでキュロス王の勅令が記された巻物が発見されました(2節)。それは、神殿を再建すること、その規模は以前と同規模にすること(3節)、費用は国庫負担とすること(4節)、神殿祭具は返還すること(5節)、という内容のものでした。

 3節に、「建物の高さは60アンマ、間口は60アンマとする」と記されていますが、ソロモンの神殿は、「奥行きが60アンマ、間口が20アンマ、高さが30アンマ」(列王記上6章2節)だったので、かなりサイズアップすることになります。

 その「覚書」(2節)を見たダレイオス王は、神殿再建の干渉を辞め(6節)、むしろそれを援助するように、ユーフラテス西方の税収をその費用に充てるように命じました(8節)。かくて、神殿再建がキュロス王の命令であったことが確認され、ダレイオス王によって、ペルシアの公式事業として推進されることになったわけです。

 さらに、神への献げ物に必要な牛、羊、穀物などは毎日欠かさず提供することを命じ(9節)、イスラエルの民が神を礼拝するときに、ペルシア王と王子たちの幸福を祈るようにさせます(10節)。そして、この定めに違反し、彼らの礼拝を妨げようとする者は厳罰に処すということさえ、つけ加えました(11,12節)。

 そこで、長官タテナイらは王の命令どおりに実行し(13節)、イスラエルの民は順調に建築を進めることが出来たので(14節)、ダレイオス王の治世第6年のアダルの月の23日に無事完成しました(15節)。ダレイオス王の治世第6年といえば、紀元前516年頃のことです。キュロス王の解放令が出されて20年余り、エルサレムが陥落し、神殿が破壊されて70年という年月が経ったことになります。

 完成した第二神殿をソロモンの神殿と比較すれば、サイズはともかく、壮麗さ、細かい装飾などをそのとおりに再現することは出来なかったでしょう。けれども、ここに主に属詞、主なる神を礼拝するイスラエルの民が回復されたのです。

 出エジプトの際、神の幕屋を造るために、金、銀、青銅、青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、雄羊の毛皮、ジュゴンの皮、アカシヤ材、灯火のための油、種々の香料、縞めのうやその他の宝石を集めました(出エジプト記35章5節以下)。

 長年に亘る奴隷生活をしていたイスラエルの民が、それらをすべて所有していたわけではありません。彼らは、エジプトを出る際、エジプトの民から金銀の装飾品や衣類を得ました(同11章2節、12章35,36節)。それが用いられて、主が共に住まわれる神の幕屋を作ることが出来たのです。

 今回は、キュロス王の命令により、そして、ダレイオス王がそれを確認したことから、ペルシャの国庫から神殿再建に必要なすべてのものが供給されることになりました(4節)。こうした出来事の背後に主なる神がおられること、主に属する民を礼拝する民として整えるために歴史を動かしておられるのは神であること、御旨の実現のために、異邦人をさえお用いになるということが、ここにはっきりと示されています。

 神殿完成を祝い、雄牛百頭、雄羊二百匹、小羊四百匹が献げられ、また、全イスラエルの贖罪の献げ物として雄山羊12匹がささげられました。それを、「イスラエルの部族の数に従って」と言っています。即ち、バビロンによって滅ぼされた南ユダだけでなく、アッシリアに滅ぼされた北イスラエルの罪も贖われ、清められたということです。

 今回、エルサレム神殿を再建した民4万2千人余りは、かつて、イスラエルを建国した民の十五分の一というようなものでしょう(2章64節、民数記1章46節、26章51節参照)。まさしく、「イスラエルの残りの者」です(イザヤ書10章20,21節、46章3節、エレミヤ書31章7節など)。

 神殿が完成した翌月(アダルの月はユダヤの12月、太陽暦の2~3月)、彼らは過越祭を祝います(19節)。それは、バビロンからの解放を第二の出エジプトと見なし、これまでの古いパン種を取り除いて、新しく完成した神殿で、心を込めて主なる神を礼拝するのです。そうして、神の救いは遠い過去の出来事ではなく、今現在、私たちが味わうことの出来る御業であることを知って、それを喜び祝うのです。

 冒頭の言葉(20節)に、祭司、レビ人たちが身を清めていたと記されています。これは、神殿が出来、礼拝が行われるようになったから身を清めたというのではなく、神殿再建の工事が再開されて以来、彼らが常に身を清めて、礼拝に、祭に備えていたということでしょう。この献身により、過越祭を滞りなく行うことが出来たのです。

 私たちは、主イエスを信じる信仰によって神の子とされ(ヨハネ1章12節)、私たちの内に聖霊を住まわせる神殿とされました(第一コリント3章16節)。主の恵みの御業を日毎に確認し、喜びをもって主と共に歩ませていただきましょう。「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです」(第二コリント5章17節)。

 主よ、イスラエルの人々は、主の憐れみを受けて神殿を再建し、再び主を礼拝する民として整えられました。今、私たちも礼拝の民として、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げるよう、招かれています。日々新たに、感謝をもってその招きに応えることが出来ますように。 アーメン