「しかし同時にヨシャファトはイスラエルの王に、『まず主の言葉を求めてください』と言った。」 歴代誌下18章4節

 ユダの王ヨシャファトが、大いなる富と栄光に恵まれるとともに、イスラエルの王アハブとも姻戚関係を結んだと、1節に記されています。具体的には、息子ヨラムのために、アハブの娘アタルヤを嫁に迎えるというものです(21章6節、22章2節)。

 ヨシャファトは前の章で、「主はヨシャファトと共におられた」と評される人物でした。一方、アハブは、「彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った」と言われる人物です(列王記上16章30節)。アハブは、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕えました(同31節)。

 ヨシャファトはなぜ、釣り合いのとれない軛と思われる、アハブとの姻戚関係を結ぶのでしょうか。それは、南北イスラエルの間に、友好関係を築いて、国内の軍事的、政治的緊張を緩和するということでしょう。また、婚姻に伴う持参金のためとも言われます。けれども、17章でみたように、それらを必要としないほどに主の恵みを受けて、豊かな富を得、軍備を増強して国を固めていました。

 ヨシャファトがアハブを尋ねたとき、アハブは、ラモト・ギレアドに攻め上ろうとヨシャファトを誘いました(2節)。もともと、ラモト・ギレアドはイスラエルの領土でしたから(列王記上4章13節)、そこに攻め上ろうということは、アラムに奪われている領土を取り返そうということです。

 ただ、ここで「誘う」というのは、申命記13章7節で、異教の神礼拝に誘うというところで用いられているのと同じ言葉です。このような言葉を選んでいるのは、歴代誌の著者がアハブとの姻戚関係が、異教の偶像礼拝に誘われたようなものであり、それに伴って、命の危機を招いていくと、ヨシャファトを強く非難する思いがそこに込められているのでしょう。 

 「一緒にラモト・ギレアドに行っていただけませんか」というアハブに、ヨシャファトは、「戦うときには、わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体です」と答えます(3節)。どこまでも一緒にということですが、それだけではなく、冒頭の言葉(4節)の通り、「まず主を求めてください」とアハブに言いました。

 そこでアハブは、自分の400人の預言者を召集し、「戦いを挑むべきか、控えるべきか」を尋ねます。すると彼らは、「攻め上ってください。神は、王の手にこれをお渡しになります」と答えました(5節)。しかし、ヨシャファトはそれに満足せず、ほかに主の預言者はいないのかと尋ねます(6節)。アハブは渋々、ミカヤを呼びます。というのは、ミカヤがアハブの災いばかりを預言していたからです(7,8節)。

 呼び出されたミカヤは初め、「攻め上って勝利を勝ち取ってください」と言いますが(14節)、真意を尋ねると、「イスラエル人がみな、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました」と言い(16節)、さらに、「主がこのあなたの預言者たちの口に偽りを言う霊をおかれました。主はあなたに災いを告げておられるのです」と続けました(18節以下、22節)。

 ここで、祝福を語る400人の預言者と、400人の預言者の告げる祝福は偽りで、アハブをラモト・ギレアドで倒れさせると災いを告げたミカヤと、どちらが神によって語っていたのでしょうか。どうすれば、それが判別出来るのでしょうか。

 主イエスは、神の御心を行おうとする者は、その教えが神から出たものか、その人が勝手に語っているのか、分かるはずだと言われました(ヨハネ福音書7章17節)。アハブはミカヤを投獄監禁して戦場に赴きました(25節以下)。戦いの後、ミカヤを処罰するためでしょう(26節参照)。

 ヨシャファトは、ミカヤの言葉をどのように聞いたのでしょう。残念ながら、彼もヨシャファトの言葉に真剣に耳を傾け、その災いを免れようとはしませんでした。ヨシャファトがアハブと姻戚関係を結んだことが問題だったように、ここで、ヨシャファトが主の預言者の言葉を聞きながら、その言葉に従おうとしないところに、問題があります。

 もしも、ヨシャファトがミカヤの言葉を聞き、アハブにラモト・ギレアドに攻め上るのを辞めさせ、主なる神を求め、その戒めに従って歩むように進言していたら、それをアハブが聞き入れていたら、彼は、この戦いで命を落とすことはなかったのです。

 悔い改めとは、方向転換して神の方に向くことです。人の思いや考えではなく、神の御心に従うことです。けれども、アハブは神に従うよりも、自分の思いを優先しました。神の御言葉に謙るよりも、ミカヤに反発するかたちで行動してしまいました。それは、王としてのメンツでしょうか。結局、自分の周りに集めた御用預言者らの言葉に気を良くし、真の預言者の言葉の耳を閉ざしてしまいました。

 そのため、災いを告げたミカヤの預言どおり、その戦いの中で深手を負い、息絶える結果となったのです(33,34節)。アハブと同行したヨシャファトも、敵に包囲されて絶体絶命のピンチに陥りましたが、すんでのところで救われました(31節)。

 31節の「引き離された」という言葉は、2節の「誘う」という言葉です。神が、「アハブと一体」と言っていたヨシャファトから敵を誘い出して救ったという表現で、行くべきでなかった戦争のさなか、神の助けを叫び求めたヨシャファトは、神の救いを見ることが出来たのです。ここに、神の憐れみがあります。

 繰り返し学んでいるように、気分や感情によらず、信仰によって行動しましょう。ヨシャファトがアハブに言った通り、主の御言葉を求めましょう。告げられた御言葉に聴き従いましょう。そうして、聖霊に満たされ、神に力づけられ、励まされて歩ましょう。

 主よ、アハブは自分の意に沿わない神の言葉に耳を傾けることが出来ませんでした。その結果、災いを刈り取ることになりました。ヨシャファトは、主の御言葉を求めることは知っていましたが、素直に従うことが出来ませんでした。そのために、危うく命を落としてしまうところでしたが、主に助けを求めて、九死に一生を得ました。私たちも同様に弱く愚かな者です。憐れんでください。日々御言葉を求めて、御前に進むことが出来ますように。謙って聴き従うことが出来ますように。聖霊の満たしと導きを心から願います。 アーメン