「主は世界中至るところを見渡され、ご自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。この事について、あなたは愚かだった。今後、あなたには戦争が続く。」 歴代誌下16章9節

 アサ王は、その治世が終わりに近づいたとき、大きな試みに遭いました。治世第36年に北イスラエルの王バシャがユダに攻め込んで来たのです(1節)。この戦いは、列王記上15章16節以下に、同じように記述されています。ただし、同15章33節によれば、バシャは、アサの治世第3年に王となり、その治世は24年に及んだというのですから、アサの治世第36年には(1節)、バシャは既にこの世にありませんでした。

 アサの治世第26年にバシャの子エラがイスラエルの王となり(列王記上16章8節)、翌年、家臣ジムリが謀反を起こして代わって王となり(同9,15節)、しかし、7日後に全イスラエルがオムリを立ててジムリを追い落とし、代わってオムリが王となりました(同16,22,23節)。アサの治世第36年は、オムリがイスラエルの王のときということになります。ということで、いずれかの資料に年代の誤りがあると言わざるを得ません。

 バシャがラマに砦を築くということは(1節)、既にベニヤミン領に攻め込んでその地を確保しているというしるしです。そこを橋頭堡として、さらに深く攻め込んで来ようというわけです。

 そこでアサは、アラム王ベン・ハダドに金銀を贈って北イスラエルを牽制させ、攻撃がやむように願いました(2節以下)。その際、アサは「わたしとあなた、わたしの父とあなたの父との間には同盟が結ばれています」(3節)と言っていました。父アビヤの代に結ばれた同盟関係を自分たちの間でも確認し、その上で、バシャとの同盟を破棄するように求めたわけです。

 その求めに応じて、アラム軍が北イスラエルの補給基地を攻略したので(4節)、バシャはラマの構築を中止しました(5節)。しかも、バシャがラマに砦を建てるために運び込んだ石材と木材を利用して、ゲバとミツパに砦を築くことが出来ました(6節)。

 アサにとって、ベン・ハダドへの貢物は、王宮の宝物庫だけでなく、主の神殿からも金銀を取り出すということで、とても大きな負担だったわけですが、敵を追い払うことが出来ただけでなく、国境の防備も固めることが出来たわけです。まさに一石二鳥の結果となったので、快哉を叫びたいところでしょう。

 けれども、そこへ先見者ハナニがやって来て、「あなたはアラム王を頼みとし、あなたの神、主を頼みとしなかった。それゆえ、アラムの王の軍隊はあなたの支配を離れる」と告げます(7節)。「支配を離れる」ということは、アラムとの同盟関係は、父アビヤのときは、イスラエルがアラムを支配していたということになります。それは、主を頼みとしていたときの主の計らいだったということでしょう。

 それをこのとき、アサ王が主を頼みとせず、貢物でベン・ハダドを動かして解決しようとしたため、立場が逆転する結果になってしまったわけです。また、アサの貢物でベン・ハダドが北イスラエル王バシャとの同盟を破棄するというなら、アサとベン・ハダドとの同盟もそれだけのこと、金の切れ目が縁の切れ目ということになります。

 アサ王は、主の目にかなう正しいことを行って来た王様でした。彼は、国内から異教の偶像を取り除き続けてきました(14章2節以下、15章8節)。母親がアシェラ像を造ったというので、太后の位から退けることさえしています(15章16節)。そして、自軍に倍する敵軍を前にしても、主を頼みとし、主の御名で大軍に立ち向かうと信仰を言い表した王様です(8節、14章7節以下)。

 何故今回、主を頼みとせず、冒頭の言葉(9節)にあるように、「あなたは愚かだった」と言われてしまうのでしょうか。それは、それほど問題が大きくなかったからなのかも知れません。自分に倍するような敵ならば、主を頼みとするほかありませんでした。でも、自分が動けばなんとかなるかも知れないというようなレベルのとき、祈るまでもないと思うのではないでしょうか。

 大罪を犯すと考えれば手を出さなかったかも知れませんが、この程度ならといった軽い気持ちで罪に手を染めてしまうケースがあるでしょう。大祭司カイアファの屋敷でペトロが主イエスを否んだとき、もしもペトロ自身が縛られて大祭司の前に引き出され、同じように尋ねられたのであれば、「私は主イエスの弟子です」と答えられたのかも知れません。富士山に躓く人はいません。私たちが躓くのはごく小さな段差です。

 神はそれを、「愚かだった」と言われました。これは、聞かなければならない大切な言葉であり、そこから信仰を学ばなければなりません。主なる神は、私たちを愚かなままにしておきたくはないのです。冒頭の言葉(9節)のとおり、「主は世界中至るところを見渡され、ご自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」のです。

 主の言葉を聞いて、アサ王のように憤るのではなく(10節)、どんなときにも主を信頼し、事毎に主に尋ね、導きに従って欲しかったのです。たとい失敗しても、もう一度主の祭壇を新しく築き直すこと、改めて主を求めようと心を定めることを望んでおられたのです。即ち、アラムの王の軍隊がユダを離れても、全知全能の主が味方となってくださるなら、誰もユダに敵対することが出来ないことを悟って欲しいと願っておられたということです。

 失敗しないように気をつけていても、失敗してしまうのが私たちの常です。失敗したとき、そしてそれに気づいたときには素直に悔い改め、主の赦しを頂いて、主と共に前進させて頂きましょう。「互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(コロサイ書3章9,10節)。主の祝福を祈ります。

 主よ、あなたに信頼します。弱い私たちを憐れんでください。絶えず御言葉に立ち、その導きに従うことが出来ますように。御心を尋ねて祈り求めます。私たちの歩むべき道を示してください。主こそ道であり、真理であり、命だからです。私たちを主の御業に用いてください。御心がこの地になりますように。 アーメン