「あなたが生涯を終え、先祖のもとに行くとき、あなたの子孫、あなたの子の一人に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしのために家を建て、わたしは彼の家をとこしえに堅く据える。」 歴代誌上17章11~12節

 ダビデは少年時代、牧場で羊の群れの番をしていましたが、神に選ばれてイスラエルの指導者となりました(7節)。ダビデは、ヘブロンで全イスラエルの王となり(11章1節以下、サムエル記下5章1節以下)、その後、エルサレムに都を構えました(11章7節以下)。そこに立派な王宮が完成し(14章1,2節)、そして、ダビデの張った天幕に神の箱を迎えることも出来ました(16章1節)。

 そこでダビデは、預言者ナタンに、「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、主の契約の箱は、天幕を張ってその下に置いたままだ」と、主なる神のために、神殿を建てる相談をします(1節)。ナタンは、「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。神はあなたと共におられます」と、すぐに賛同しました(2節)。

 ところが、その夜、神は、「イスラエルの民をエジプトから救い出して神の民とした日から今に至るまで、家に住まず、天幕を住まいとして来たこと(5節)、その間、一度も、何故わたしのためにレバノン杉の家を建てないのかと言ったことはないことをお告げになり(6節)、ダビデの申し出を拒否されました(6節)。

 ここで、「天幕から天幕へ、幕屋から幕屋へと移って来た」(5節)と言われていることについて、シロの祭司エリの家を打たれた際、イスラエルを導き上った幕屋はギブオンに移され、その後、神の箱がエルサレムの戻された際、ダビデが新しい天幕を建てました。この二つ以外の幕屋、天幕に移されたことは知られていません。

 幕屋は、聖なる神がエジプトを脱出した民の中に住むための聖なる所として造られました。神は、シナイの荒れ野を民と共に旅されたように、バビロンに捕らえ移されたときも共におられたということを、こうした表現で示しているのでしょう。

 ダビデの申し出を拒否されたのは、神殿を建てる必要はない、神殿などには決して住まないということではありません。主は、「わたしのために住むべき家を建てるのではあなたではない」(4節)と言われました。ダビデは、神殿を建てるのにふさわしい人物ではない、別の人物が神殿を建てるということです。

 22章8節では、「わたしの前で多くの血を大地に流したからには、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない」と言われています。 ダビデの役割は、万軍の主の手先となって、「行く手からことごとく敵を断」つこと(8節)、「敵を・・ことごとく屈服させる」(10節)ことです。

 ともあれ、神のために神殿を建てたいというダビデの心を神は喜ばれています。だからこそ、「主があなたのために家を建てる」(10節)と言われるのです。主がお建てくださる「家」とは、建物ではなく、「王家」、王朝のことです。だから、冒頭の言葉(11,12節)で、ダビデの子の一人が跡を継いで王国を揺るぎないものとし、その子が神殿を建てること、それゆえにその王座をとこしえに堅くすると約束されているのです。

 これは、当然ダビデの子ソロモンによる神殿建設を示しています(列王記上6章、歴代誌下1章18節以下参照)。ソロモンは、準備された最高の材料を用いて、7年という歳月をかけ、壮麗な神殿を建てたのでした。ダビデに対する神の約束が、実現したわけです。

 しかし、歴代誌の記者は、バビロンによってソロモンの建てた神殿が焼かれ、エルサレムの町は壊滅させられ、その民は捕囚とされたことを知っています(歴代誌下36章)。それは、王をはじめイスラエルの民が神に背き、異教の偶像を礼拝したからです。エルサレム神殿の中にすら、偶像が置かれました(同33章4節以下)。民自ら、神との約束を反故にしてしまったというわけです。

 だからといって、主なる神は、その約束を反故にされたわけではありません。神は、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」であり(ヘブライ書13章8節)、常に真実な方だからです(ローマ3章4節)。バビロンによって破壊された神殿を、捕囚から解放された民が再建します。それを指導するのも、ダビデの子孫の一人です(エズラ記参照)。

 主イエスは、ヘロデが46年かかって完成出来ていない神殿を壊し、それを三日で建て直すと言われました(ヨハネ2章19節)。それは、十字架で死なれた主イエスが三日目に甦られること、その復活の主の体のことを言っておられたのです(同21節)。実に、ダビデの子孫としてお生まれになった主イエスが、真の神殿を建てると言われているのであり、主イエスを通して、神の王国が堅く立てられるのです。

 主イエスは、十字架につけられたとき、その罪状書きに、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と記されました(同19章19節など)。祭司長たちがそれに異議を唱えると、総督ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えます(ヨハネ19章21,22節)。

 つまり、主イエスはピラトによって、十字架上でユダヤ人の王として即位されたのです。そして、主イエスは十字架で託された神の御業を完成されて息を引き取られました(同19章30節)。この主イエスこそ、真の王の王、主の主であられます。

 そして神は、主イエスを信じる者に、約束の聖霊を送ってくださいました。私たちは内に聖霊を宿す聖霊の宮、神の神殿であると教えられています。それは、主の憐れみと聖霊のお働きによるのです。御言葉と御霊の導きにすべてを委ね、示されるとおりに歩ませていただきましょう。それこそ私たちのなすべき礼拝なのです。

 主よ、御霊が私たちを神殿として内に住み、神の愛を心に注いでくださることを感謝します。御言葉と御霊により、私たちを清め、御心に適う者と造り替えてください。御名が崇められますように。宣教の御業が前進しますように。全日本に主の恵みと慈しみが豊かにありますように。 アーメン