「主を求める人よ、主を、主の御力を尋ね求め、常に御顔を求めよ。主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を、主の口から出る裁きを心に留めよ。」 歴代誌上16章10~12節

 ダビデは神の箱を都エルサレムに運び入れ、天幕の中に安置しました(1節)。この天幕は、ダビデが神の箱のために場所を整えて、張ったものです(15章1節)。主の契約の箱を運び入れるに当たり、ダビデが喜び踊るのを見て、サウルの娘ミカルはさげすみました(15章29節)。それは、サウルの時代には、神の箱がおろそかにされていたということを象徴しているような姿です(13章3節)。

 一方、39節によると、主の幕屋がギブオンの聖なる高台にあります。神の箱が失われたまま、主の幕屋での礼拝がギブオンで続けられていたわけです。ダビデは、神の箱をエルサレムに運び込みましたが、主の幕屋はギブオンに置いたままにし、祭司ツァドクとその兄弟たちをそこで仕えさせるようにしました。

 かくて、出エジプト以来の主の幕屋が立てられているギブオンに加え、神の箱を安置した天幕のあるエルサレムと、イスラエルに重要な礼拝の場所が二か所になりました。

 ダビデは、自ら張った天幕に神の箱を安置したのち、神の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげます(1節)。神の箱は主なる神との契約のしるし、神の御前にささげられる供え物は、神への感謝と共に、献身を表すものです。

 これまでも、ダビデは神を信じていなかったわけではありませんでしたし、神に従って来なかったわけでもありませんが、はっきりと神との契約の関係にあることを表明したのです。それは、主イエスを信じて受け入れた者が、神と人の前でそのことを公に言い表し、バプテスマを受けることにつながります。

 ここで、神の幕屋に関わる務めはレビ族が担っており(民数記3,4章参照)、献げ物を神にささげるのは、祭司の務めでした(レビ記1章以下参照)。既に見て来たとおり、ダビデはユダ族の出身であり(2章3節以下、15節)、また、王として立てられてはいますが(11章1節以下)、祭司ではありません。

 後に、ウジヤが神の前に香を炊こうとして、神に打たれたという事件がありました(歴代下26章16節以下)。また、サウル王がサムエルの到着を待てずに、自ら献げ物をささげたとき、そこにサムエルが来て、「あなたは愚かなことをしたから、王権は他者のものとなる」と断罪したということもあります(サムエル記上13章8節以下)。ダビデがそれを行い得たのは、神がそれを許されたからということでしょう。

 これは、ダビデの子孫として生まれる主イエス・キリストの予表でもあります。「キリスト」とは、ヘブライ語で「メシア」、油注がれた者ということですが、祭司や王が聖別され、即位するとき、頭に油が注がれます(レビ記4章3節、サムエル記上24章6節など)。つまり、ダビデの子イエスは、王であり、また祭司でもある「救い主」だということを、このときのダビデが、予め示しているということです。

 8節以下に、ダビデの歌が記されています。8~22節は詩編105編1~15節、23~33節は詩編96編1~13節、34節は詩編106編1節、35,36節は詩編106編47,48節の引用です。

 ここで、冒頭の言葉(10~12節)は、神の民イスラエルに対して、絶えず主なる神に心を向け、礼拝をささげるよう呼びかけるものです。神の民は、その生活の中で神の霊の力に与るように、主を慕い求めるよう、促されます。

 神の御前に出て、主を求め、主の御業を心に留めることが命じられますが、それは、単に自分たちのためだけのことではありません。神がおのが民をお選びになったのは、その恵みが、選びの民を通してすべての人々に広げられるためです。

 神の幕屋には、その周りに囲われた庭があり(出エジプト記27章9節以下)、その庭に祭壇と洗盤が置かれています(同40章6~8節参照)。祭壇はいけにえを献げるもので、これはキリストの十字架を意味しています。洗盤は祭司が身を清めるための水を入れている器で(同30章17節以下)、主イエスを信じる者が受けるバプテスマを表します。

 神の幕屋では、礼拝が行われます。神の幕屋には、12個のパンを供える机があります(同40章22,23節)。それは、キリストの体を表しています。教会は、命のパンであるキリストの御言葉で養われます。御言葉を守り行うことこそ、キリストの愛に留まることと教えられています。

 また、七枝の燭台(メノラー)があります(同24,25節)。このランプの光で幕屋の中を照らしています。これは、聖霊を表しています。聖霊が私たちに真理を悟らせます。礼拝は霊と真理をもってなされるのです。そして、香の祭壇があります(同26,27節)。神の御前に捧げられる賛美と祈りを表しています。

 聖霊とキリストの御言葉と賛美による礼拝を通して、至聖所へと導かれます。その奥殿には、神の箱が置かれています(同20,21節)。それは、私たちが神の民であり、主が私たちの神であるという契約のしるしです。そこで神と人が顔と顔とを合わせて、食事を共にするという親しい交わりをするのです。

 キリストの声を聴いて心の扉を開いた者は、キリストが心の内に来られ、共に食事をする親しい交わりが出来ると言われています(ヨハネ黙示録3章20節)。また、キリストの十字架で贖われた者は、聖霊を宿す聖霊の宮、神殿であるとも言われます(第一コリント3章16節、6章19節など)。

 神に創られ、キリストによって贖われた者として、御言葉に従い、心から賛美と祈りを捧げましょう。主は私たちを主との親しい交わりへと導かれ、その恵みに与らせてくださいます。絶えず主の御顔を求め、神の口から語られる御言葉に耳を傾けましょう。御霊に満たして頂きましょう。

 主よ、御子キリストの贖いを感謝します。キリストを心の王座にお迎えします。聖霊に満たされ、絶えず唇の実を主におささげします。霊と真実をもって主を仰ぎます。聖霊の力を受けて、主の恵みを証しします。御業のために用いてください。 アーメン