「戦士たちは皆立って、サウルとその息子たちの屍を取りに行き、ヤベシュに持ち帰って、彼らの骨をヤベシュの樫の木の下に葬り、七日間、断食した。」 歴代誌上10章12節

 歴代誌の記者は、キシュの子サウルに関するベニヤミンの系図を2度記していますが(8章33節以下、9章35節以下)、サウルの業績やダビデとの確執などは、記録したくなかったのでしょうか。「ダビデ王の登場」(11章)を急がせるかのごとく、10章1節以下に突然「サウルの死」の記事を登場させています。

 サウルは、戦いを挑んで来たペリシテ軍に対し、ギルボア山に陣を敷いて迎え撃ちますが、打ち負かされて、多くの兵がギルボア山上で倒れます(1節)。そして、ペリシテ軍がサウル本陣に迫り、サウルの息子たちを討ちます(2節)。その後、サウルもペリシテ軍の放った矢で深手を負い(3節)、もはやこれまでと自害します(4節)。これにより、サウル王朝はサウル一代で潰えてしまったように記されています(6節)。

 しかし、サムエル記下2章8節以下によれば、サウルの軍の司令官アブネルが、サウルの末子イシュ・ボシェト(歴代誌上8章33節、9章39節によればエシュバアル) を擁立してイスラエルの王としています。サウルとイシュ・ボシェトの二代で、サウル王朝は姿を消してしまったわけです。

 イシュ・ボシェトは40歳で即位して、2年間王位にあったと、サムエル記下2章10節に記されていますが、サウルについて、正確な記述がありません。サムエル記上13章1節に、「サウルは王となって一年でイスラエル全体の王となり、二年たったとき」とありますが、王位が2年間しかなかったとすると、サウルが王になったのは幾つのときかが問題になります。

 新改訳は、「サウルは三十歳で王となり、十二年間イスラエルの王であった」としています。NEBは、50歳で王となり、22年イスラエルを治めたということにしています。一方、使徒言行録13章21節に、「後に人々が王を求めたので、神は40年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり」とあります。

 サウルがサムエルに見いだされたのは、「若者」のときだったということ(サムエル記上9章2節)、そして、イシュ・ボシェトの即位の年齢から考えれば、正確なことは分かりませんが、30歳より前に即位し、40年ほどその地位にあったと考えるべきなのでしょう。
 
 ところで、本章は、サムエル記上31章と字句的にほぼ一致する記事になっていますが、歴代誌の記者は、サウルの死について、「サウルは、主に背いた罪のため、主の言葉を守らず、かえって口寄せに伺いを立てたために死んだ。彼は主に尋ねようとしなかったために、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに渡された」(13,14節)という評価を加えています。

 この評価について、サウルがどのような罪を犯したのか、歴代誌にはその記述が全くないので、サムエル記の記事を前提としていることになります(サムエル記上13,15,28章など参照)。そして、サウルの犯した罪は歴代誌の記者にとって、情状酌量の余地のないものだったのです。

 けれども、そこに美しい話が挟まれています。ペリシテとの戦いで死んだサウルと息子たちの首がペリシテに持ち帰られ、ダゴンの神殿にさらされました(10節)。サムエル記上31章では、ガリラヤ湖南方のベト・シャンの城壁に遺体をさらしたとされています。首の切られた遺体はベト・シャン城壁に、首はアシュドドのダゴン神殿に、ということでしょうか。

 そのことを伝え聞いたギレアドのヤベシュの住民は(11節)、冒頭の言葉(12節)のとおり、戦士を遣わしてサウルとその息子たちの屍を取って来させ、ヤベシュの樫の木の下に葬り、彼らのために七日間断食して、その死を悼みました。

 ベト・シャンの城壁であれ、アシュドドのダゴン神殿であれ、あるいは両方かも知れませんが、ペリシテ人の支配地域に行って、屍を取り返すのは、まさに命がけのことです。また、遺体に触れる者はその汚れを身に受けると言われますし(レビ記21章1~4節)、さらしものにされたものは、神に呪われていると考えられていました(申命記21章23節参照)。その宗教的タブーを犯すというのは、並大抵のことではありません。

 ヤベシュの人々はかつて、アンモン人ナハシュの攻撃を受け、降伏しても全員の右目をくりぬき、それをもって全イスラエルを侮辱すると脅されました(サムエル記上11章2節)。その時に立ち上がったのが、油注がれて王となったばかりのサウルでした。

 ヤベシュのニュースを聞くや、御霊がサウルに激しく臨み(同6節)、サウルは立ち上がって、アンモンをさんざんにうち破りました(同11節)。そのときの恩を、ヤベシュの人々は忘れていなかったわけです。ヤベシュの人々の感謝が、サウルの葬りとなりました。

 それはちょうど、主イエスが十字架にかけられて殺される数日前、マリアが純粋で高価なナルドの香油を主イエスの足に塗り、主イエスの葬りの用意をしたことに通じます(ヨハネ12章3,7節)。マリアは、その兄弟ラザロを主イエスが甦らせて下さったことに感謝し、自分の最も大切にしていた宝を主におささげしたのです。それは、マリアの感謝の気持ちの大きさを表します。

 その香油の香りは家中に広がり、また、何日も香り続けます。主イエスが十字架につけられたときも、その香りが主イエスの身体から離れてはいなかったでしょう。人々の裏切りや嘲りの中で、その香りが立ち上って主イエスの心を暖かく包んでいたと想像するのは間違いでしょうか。

 私たちが神の子とされるために、どれほどの愛を神から頂いたことかをよく考え(第一ヨハネ3章1節)、自分を知り、主の愛と恵みを知って、感謝と喜びをもって主に仕える者とならせていただきましょう。

 主よ、ヤベシュの人々がサウルの恩を忘れず、それに命がけで報いたように、私たちも主イエスを通して示された御愛に応え、すべてを献げて主にお仕えする者とならせてください。主の御業が前進しますように。御国が来ますように。 アーメン