「王の介添えをしていた侍従は神の人に答えた。『主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう』。エリシャは言った。『あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。』」 列王記下7章2節

 アラムの王ベン・ハダドが全軍を招集して、サマリアを包囲しました(6章24節)。ベン・ハダドとは、アラムの神である「ハダド」の息子という意味のアラム王の称号で、聖書中では、ユダの王アサの時代に、ベン・ハダド1世が登場します(列王記上15章18節)。それから、イスラエルの王アハブの代に出て来るのがベン・ハダド2世で(同20章1節)、彼は、今回と同じ人物です。

 アハブは、神の助けによってアラムを2度打ち破りましたが(同20,21節、29節以下)、そのとき、ベン・ハダドの助命の嘆願を受け入れて協定を結び(32節以下)、彼を安全に帰国させました(同34節)。

 その協定を破り、ベン・ハダドは三度目イスラエルに攻め込み、サマリアを包囲して兵糧攻めにしているわけです。サマリアは、大飢饉に見舞われた上にアラム軍による包囲で、まさに泣き面に蜂状態、大変なことになりました(列王記下6章25節)。

 そこで、イスラエルの王ヨラムは、エリシャに使者を遣わし、エリシャの首をはねさせようとします(同31節)。それは、ヨラム王が、この大艱難が主によって引き起こされたものと考えていて(同33節)、それゆえ、主の預言者にその怒りをぶつけようとしているわけです。

 しかし、主がイスラエルに艱難を与えているのであれば、エリシャを殺したところで、それが止む道理はありません。むしろ、主を畏れないその行為が、主の怒りの炎に油を注ぐ結果になるだけです。ヨラムに求められているのは、主を畏れ、その御前に謙ることでしょう。

 しかるにエリシャは、明日の今頃にはサマリアの城門で小麦、大麦の大安売りが行われると告げます(1節)。ところが、冒頭の言葉(2節)のとおり、王の介添えをしていた侍従は、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう」と答えています。王の侍従は、エリシャの告げた主の言葉を信用することが出来なかったのですが、それは、侍従だけでなく、ヨラム王も、そしてサマリアの住民も、同様だったのではないでしょうか。

 そのとき、都の城門の入り口に重い皮膚病を患う者が4人いて、このまま飢えて死ぬまで座しているよりは、アラムに投降しよう。うまくいけば生き延びることが出来るかも知れないと出て行くと(3,4節)、何故かアラムの陣営には誰もいませんでした(5節)。

 それは、主が戦車や軍馬、大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたので、イスラエルが援軍を頼んだのだと恐れ(6節)、アラム軍は取るものも取り敢えず、逃げ去ってしまったのでした。あとには、天幕も馬もロバもそのまま残されていました(6,7節)。

 重い皮膚病を患っている者たちは、そこで思う存分飲み食いし、金品を隠して自分のものにしようとしましたが(8節)、この事実を隠したままいるなら、神の罰を受けるに違いないと考えて、これを王家の人々に知らせようとサマリアの町に戻り(9節)、門衛に伝えます(10節)。その知らせを聞いた王はしかし、これをアラム軍の策略と考え、重い皮膚病を患う者たちのもたらしたよい知らせを、にわかに信じることが出来ませんでした(12節)。

 そこで家臣の一人が、偵察隊を出しましょうと進言します(13節)。そして、偵察隊が派遣されることになりましたが、彼らが出て行って見たのは、重い皮膚病を患う者たちが知らせたとおりのものでした(15節)。そして、持ち帰られた大量の食物が、翌朝、城門で大安売りされました(16節)。エリシャが告げたとおりのことですが、それほどの食物を持ち込んでいたアラム軍は、どんな大軍だったのでしょうか。

 王は、侍従を城門の管理に当たらせましたが、殺到した民衆に踏み倒されて死んでしまいました(17節)。エリシャが、「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない」と言っていたとおり(2節)、目の前に積み上げられた大量の穀物を売り買いする人々を見ながら、自分はそれを口にすることは出来ませんでした。預言者の言葉を信用しなかっただけでなく、神様にもそんなことは出来ないと、神を侮る発言をしたからでした。

 エリシャの告げた主の言葉をヨラム王が信じていれば、重い皮膚病を患う者たちの報告を疑うことはなかったでしょう。また、もしも偵察隊を出そうという家臣がいなければ、ヨラム王を初め、イスラエルの民は皆、いまだに空腹を抱え、座して飢え死にするのを待つばかりだったことでしょう。

 しかし、主なる神は、エリシャの告げた福音を実現するためにアラム軍が兵糧を残して逃げ去るように計らわれ、それを重い皮膚病の者たちに発見させ、それらを信じられない王のために、斥候を出すよう家臣に進言させ、そのようにして、エリシャの告げた福音が真実な神の言葉であり、イスラエルにまことの神、主がおられることを、明示したのです。

 イスラエルにそのように食料がもたらされたのは、ヨラムが悔い改めたからでも、イスラエルの民が神に助けを求めたからでもありません。むしろ、飢饉にアラム軍の包囲という絶体絶命の状態をエリシャに責任転嫁して首をはねさせようとしたのです。ということですから、このように救いが示されたのは、神の一方的な憐れみというほかはありません。  

 神は繰り返し、私たちが命の道、義の道を歩むことが出来るように招かれます。その道を開かれます。ところが、そのような神の言葉を素直に信じることが出来ません。あまりにも現実に囚われているからです。あまりにも罪深く、神の声を聴くことが出来ないからです。

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20章27節)と、私たちを信仰に導かれる主の御前に謙り、常に主の御言葉に耳を傾けましょう。その御旨に従いましょう。

 主よ、深い憐れみをもって私たちを招き、導いていてくださり、感謝致します。日々主の御前に謙り、御言葉に耳を傾け、御霊の導きに従って歩み、その祝福に与ることが出来ますように。弱い私たちを助け、信仰に歩ませてください。 アーメン