「そのうちの一人が梁にする木を切り倒しているとき、鉄の斧が水の中に落ちてしまった。彼は、『ああ、ご主人よ、あれは借り物なのです』と叫んだ。」 列王記下6章5節

 預言者の仲間たちがエリシャに、今住んでいる場所は狭すぎるので、大きな家を建てるため、ヨルダンに材木を切りに行きましょうと言います(1,2節)。預言者仲間が共同生活をしていた場所は、ベテル(2章3節)、エリコ(同5節)にもありますが、4章38節とのつながりから、ギルガルと考えるのが妥当であろうと思います。

 ただ、エリシャはサマリアに家があることが報告されており(2章25節、5章3,9節)、その私邸のほかに、預言者仲間と共に生活する公邸があると考えたらよいのでしょうか。その場所が狭くなったということは、エリシャを指導者と仰いで集い来る預言者の数が増加して来たということです。

 歴代の王たちがなかなか神の御声に耳を傾けようとしない北イスラエルにあって、エリシャのもとに預言者が集うということは、主の御声を正しく聴きたいと思う者が増えているということであり、王を初め北イスラエルの民に神の御言葉を正しく告げ知らせる働き人が、より多く求められているということなのでしょう。

 主イエスが、「収穫は多いが働き手が少ない」と仰いましたが(マタイ9章37節)、収穫が多いというのは、問題が多いということでしょう。だから、多くの働き手を必要としているわけです。

 家を増築するための材木を集めるため、木を切りに行くという申し出を受けて、「行きなさい」と応じたエリシャでしたが(2節)、預言者の一人が、「どうぞあなたもわたしたちと一緒に来てください」と懇請します(3節)。「一人」には、定冠詞が用いられていて、預言者仲間の代表ということでしょう。

 そして、新共同訳で「わたしたち」と訳されているのは、「あなたの僕たち」(アブデイハー)という言葉で、5節の「ご主人」(アドニー:「わたしの主人」の意)と共に、上下関係を強調する表現になっています。

 新改訳は、「どうぞ」を「思い切って」と訳して、その願いの強さを表現しています。預言者集団のトップとして、当然同行すべきだということなのでしょうか。あるいは、以後不測の事態が起こることを予感してということなのかも知れません。委細は不明ですが、その強い要請にエリシャは、「わたしも行こう」と応じました。

 ヨルダンで材木となる木を切り出している最中に、一人の者が手を滑らして、鉄の斧を水の中に落としてしまいました(5節)。その斧は借り物でした。当時、鉄は貴重品で、簡単に手に入れることが出来ません。貧しい預言者仲間には、到底買えるような代物ではありませんでした。だから、木を切るためにどこかから借りて来ていたわけです。

 斧を落とした者は、冒頭の言葉(5節)の通り、「あれは借り物なのです」と叫びました。借りて来たものを、返せないで済ませるわけにはいきません。買って返すお金もないとなると、どうしたらよいのでしょうか。エリシャに助けを求めるほか、何をすることも出来ませんでした。

 助けを求める声を聞いたエリシャは、「どこに落ちたのか」と尋ね、示された場所に枝を切って投げ込みました(6節)。すると、なんと鉄の斧が浮き上がったのです。そこで、浮き上がった斧を拾い上げさせました(7節)。あり得そうにないことが起こって、窮地を脱することが出来たのです。

 借り物は、必ず返さなければなりません。ファリサイ派などの人々から、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」と尋ねられたとき(マルコ12章14節)、主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました(同17節)。

 考えてみて下さい。私たちの人生において、これは自分のものと主張することが出来るものがあるでしょうか。一時期、所有することは出来ても、手放すときがやって来ます。つまり、すべて預かりもので、返すべき時がやってくるのです。

 私たちにとって最も大切な、なくてならないもの、それは命です。まさに命こそ、神からの預かりものです。だから、清算のときがきます。その時、「これは借り物だったのに、取り返しのつかないことをしてしまった」と叫ばずに済む生き方が出来ているでしょうか。神からの預かりものなのに、罪の中に沈めてしまって、自分ではどうしようもない。それが私たちの現実ではないでしょうか。

 しかし、神は私たちに救いの手を差し伸べてくださいます。エリシャが投げた木の枝は、私たちにとって、キリストの十字架を象徴しているようなものです。罪に沈んでいた私たちが、キリストの十字架の贖いによって、もう一度生き返ることが出来ました。自分で清算することの出来なかった罪の代価を、神の御子がご自身の命によって支払ってくださったのです。

 キリストによって新たにされた自分の人生を、まさしく神からの預かりものと覚え、「是非わたしと一緒に来てください」と願い、どんなことも「ああ主よ」と主に依り頼み、日々御言葉に聴きつつ歩ませて頂きましょう。

 主よ、あなたの恵みと導きを感謝いたします。御子の命というかけがえのない代価をもって贖い出し、神のものとしていただきました。御名の栄光のため、私たちのこの体を用いてください。 アーメン