「その日ガドが来て、ダビデに告げた。『エブス人アラウナの麦打ち場に上り、そこに主のための祭壇を築きなさい。』」 サムエル記下24章18節

 主がイスラエルに対して怒りを発し、ダビデに人口調査をする思いを起こさせました(1節)。軍の司令官ヨアブは、ダビデを思いとどまらせようとするのですが(3節)、王の言葉が厳しく、調査の旅に出発することになります(4節)。

 9ヶ月と20日の調査の旅で(8節)、戦いに出ることの出来る戦士の数がイスラエルに80万、ユダに50万、合わせて130万人に及ぶことが報告されました(9節)。この報告を受けたダビデは、罪の呵責を覚えて神の前に出ました(10節)。

 神が何を怒られたのか、何も記されておりません。また、ヨアブはなぜ、王に対し人口調査を思いとどまらせようとしたのでしょうか。そして、ヨアブの報告を聞いたダビデが罪の呵責を覚えるのは、なぜでしょうか。ここに、神の怒りの真相が隠されているようです。

 兵の数を知りたくなるのは、それによって軍事力を計ろうとする行為でしょう。兵の数が少なければ、外敵を恐れなければなりませんが、兵の数が多ければそれだけ安心出来ます。そのように、自分の持てる力を知っておくことは、国防上、大切なことではないかと考えられるのです。けれども、イスラエルにとって、国に勝利を与え、平和をもたらしているのは、兵の数と力ではありません。

 かつてサウル王の子ヨナタンが語ったとおり、「主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない」のです(サムエル記上14章6節)。また、ダビデ自身が若者であったとき、「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ」と語っていました(同17章47節)。

 つまり、兵の数の多少は問題ではない、救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないというような、主なる神への絶対的信頼、信仰に立っていれば、兵の数を数え、それによって安心しようという思いになることはない、というわけです。数えてみようかという誘惑の背後に、神への信頼を失った不安な心か、あるいは、神に頼らずとも、自分の持てる力でやっていける、これだけの力を持てば大丈夫だという高ぶりの心があると考えられるのです。

 ということは、そのようなダビデの不信仰や高慢が神の怒りを呼んだわけです。そして、その罪をはっきりさせるために、人口を数えるように、ダビデを誘われたのだと示されました。ヨアブが、「主がこの民を百倍にも増やしてくださいますように」といって(3節)、人口調査を思いとどまらせようとしたのは、この人口調査にダビデの不安、あるいは高ぶり、そして、神に対する不信を感じたからでしょう。

 神は、預言者ガドをダビデのもとに遣わし、7年の飢饉か、3ヶ月敵に追われることか、三日間の疫病か、一つを選べと言わせます(13節)。ダビデは、「主の御手にかかって倒れよう」(14節)と、疫病を選びます。それで、国に疫病が起こり、たちまち7万もの人々が病死します。いわば、これで安心と思っていた力が、神の前に全く何の頼りにもならないことを思い知らされるのです。

 ダビデは、イスラエルの民が御使いに打たれ、疫病で倒れるのを見て、「罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。どうか御手がわたしとわたしの父の家に下りますように」(17節)と言います。心が痛み、とても見ていられなかったのです。ここに、ダビデの人間性、神の前に出る謙虚さを見ることが出来ます。

 そこへガドがやって来て、冒頭の言葉(18節)のとおり、主のための祭壇を築くように進言します。祭壇を築くように示されたエブス人アラウナの麦打ち場は、主がイスラエルに下された災いを思い返されて、御使いの手を止めさせられたところでした(16節参照)。

 ダビデは告げられたとおり、エブス人アラウナの麦打ち場を譲り受け(19節以下、24節)、そこに主のための祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげました(25節)。主はその祈りに答えられて、疫病はやんだと記されています。

 ダビデが、災いの一つを選ぶとき、「主の慈悲は大きい」といって、「主の御手にかかって倒れよう」と、疫病を選びました(14節)。 それは、主の災いを安易に考えていたということではありません。神は恐るべきお方ですが、しかし、その裁きの中にも神の慈悲を信じたのです。そして、それに応じられたかのように、エルサレムを滅ぼそうと手を伸ばす御使いの手を止められました(16節)。

 その場所は、かつてアブラハムが神に命じられて、息子イサクを捧げようとしたところです(創世記22章2節)。やがて、その場所に、ソロモンによって壮麗なエルサレム神殿が建てられることになります(歴代誌下3章1節)。そして、この地にキリストの十字架が立てられます。十字架という祭壇に、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)なるキリストが、贖いの供え物とされるのです。

 ダビデは、「無償で得た焼き尽くす献げ物をわたしの神、主にささげることはできない」と言って、麦打ち場と牛の代価を払いました(24節)。ダビデの子イエスは、ご自身を贖いの供え物とされ、私たちは全く無償でその恵みに与っています。 

 神の前に謙り、十字架の主を仰ぎ、心いっぱい主を愛し、主の御言葉に従っていきたいと思います。

 主よ、私たちは肉や心の欲するままに行動していた、生まれながら神の怒りを受けるべき者でしたが、その豊かな憐れみにより、その愛によって、罪のために死んでいた私をキリストと共に生かし、共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいます。私たちの主イエス・キリストの父である神は、ほめ讃えられますように。 アーメン