「イスラエルの神は語り、イスラエルの岩はわたしに告げられる。神に従って人を治める者、神を畏れて治める者は、太陽の輝き出る朝の光、雲もない朝の光、雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。」 サムエル記下23章3~4節

 2節以下は、ダビデの最後の言葉であると紹介されています(1節)。彼はこの詩を、主の霊に導かれて作りました。「主の霊はわたしの内に語り、主の言葉はわたしの舌の上にある。イスラエルの神は語り、イスラエルの岩はわたしに告げられる」(2~3節)と語っているとおりです。その意味では、神から詠うべき言葉を授けられた、預言的な詩ということも出来ます。
 
 ダビデは冒頭の言葉(3節)で、「神に従って人を治める者、神を畏れて治める者」といって、イスラエルで王位につく者は、神に従い、神を畏れて人を治める者でなければならないと教えています。これは、王となるための心得といって良いでしょう。なお、「神に従って」は、「正義(ツァッディーク)」という言葉です。聖書における「義」は、神との正しい関係という意味ですから、新共同訳は、「神に従う」と意訳したのでしょう。
 
 そして、神に従い、神を畏れて治める者は、「太陽の輝き出る朝の光、雲もない朝の光、雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光」(4節)であると、語られます。ここに、太陽の光についての言及がなされています。

 それは、「地から若草を萌え出させる」という表現で、命を育むものであることを思わせます。そのことから、イスラエルの王は、神に従う正しい統治によって、神の恵みをイスラエルにもたらす者であるということが示されているのです。

 「ソロモンの詩」と表題がつけられた詩編72編5,6節でも、「王が太陽と共に永らえ、月のある限り、代々に永らえますように。王が牧場に降る雨となり、地を潤す豊かな雨となりますように」と詠われています。しかも、興味深いことに、その詩は、「エッサイの子ダビデの祈りの終り」(同20節)という言葉で閉じられているのです。ということは、詩編の編者が、ソロモンはダビデの子なので、これもダビデの祈りではないかと考えたわけです。

 ところで、ダビデの子孫は皆、神に従って人を治める者、神を畏れて治める者でしょうか。6節の「悪人(ベリアル:口語訳、新改訳では「よこしまな者」)」という言葉は、ここではダビデに逆らう者、従わない者を指していると思われ、さしあたり、ダビデの息子アブサロムやビクリの子シェバなどが考えられていると思います。サムエル記上2章12節ではエリの息子たち、25章17節ではナバルをそう呼んでいました。

 しかし、アブサロムだけでなく、ダビデに連なる者の中から、そう呼ばざるを得ない者が出て来るということではないでしょうか。サム下16章7節では、シムイがダビデをそう呼んでいますし、22章5節で「奈落(口語訳・新改訳は「滅び」)」と訳されています。これは、ダビデを脅かすものということで、アブサロムらのことと言ってもよいですが、ダビデ自身の罪のこととも考えられます。ダビデを、罪の力が、抗いようもなく悪へ、滅びへと誘っていくという様子を思い浮かべます。

 そのため、「触れる者は槍の鉄と木を満身に受ける。火がその場で彼らを焼き尽くすであろう」(7節)と警告されているのです。そして、残念ながらというべきでしょうけれども、その悪のゆえに、エルサレムの都がバビロンに攻め落とされ、多くの者が剣によって殺され、町は火で焼き尽くされ、残りの者は捕囚の憂き目を見るという結果を招きました。

 ダビデはしかし、霊の導きによって、もっと先のことを垣間見ていたのではないでしょうか。冒頭の言葉(3,4節)で、ダビデは自分の子孫に、神に従って人を治める者、神を畏れて治める真の王者が出ること、その統治は、輝き出る朝の光のようだと、ここに預言しているわけです。

 それは、預言者イザヤが、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、乎和の君』と唱えられる」(イザヤ9章5節)と、王なるメシア到来を預言しているのと同じようなものではないでしょうか。

 ヨハネ福音書において、主イエスのことを、「言(ことば::主イエスのこと)の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(1章4節)、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(同12節)、「わたしたちは皆、この方(主イエス)の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けた」(同16節)と語っています。

 主イエスは、東方の博士たちに「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」と呼ばれ(マタイ2章2節)、十字架の罪状書きに、「これはユダヤ人の王イエスである」と記されました(同23章37節)。

 ダビデの子孫としてお生まれになり、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられた(第ニテモテ2章8節、ローマ書4章25節)主イエスこそ、ダビデが詠い、イザヤが預言した、真の「王の王、主の主」(黙示録17章14節、第一テモテ6章15節)なのです。

 主イエスを心の王座、生活の中心にお迎えし、賛美のいけにえ、唇の実を絶えず主にお捧げしましょう。

 主よ、御子イエスを私たちの王の王、主の主として、私たちの生活の中心、心の王座にお迎えします。主は命の神です。私たちの岩を讃えます。主と共にあって、私たちの家は堅く立ちます。真にあなたは、私たちの救いと願いを、すべて育て上げてくださいます。いよいよ御名が崇められますように。 アーメン