「敵は力があり、わたしを憎む者は勝ち誇っているが、なお、主はわたしを救い出される。彼らが攻め寄せる災いの日、主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜ぴ迎えてくださる。」 サムエル記下22章18~20節

 22章には、「ダビデの感謝の歌」とされる詩が記されています。これとほとんど同じ詩が、詩編18編にあります。1節に言うとおり、ダビデが自分の生涯を振り返り、その時々に救いの御手を延べてくださった主なる神に対する感謝と賛美の言葉を連ねているという内容です。

 サムエル記上2章1節以下に「ハンナの祈り」とされる歌があり、その歌と、この「ダビデの感謝の歌」によって、サムエル記が枠づけられています。即ち、サムエルの誕生からサウルの登場、そして、ダビデに至るイスラエルの歴史は、単なる権力と戦いの物語というのではなく、主の権威、御力による救いの物語であり、それに対して、イスラエルは感謝と賛美をささげるというかたちです。

 この歌には、1節の「救い出す」(ナーツァル)という言葉が、冒頭の言葉(18節)と49節(「助け出す」と訳されている)にもあります。3節には、「救い」(エイシャー)という名詞が、36節、47節にあり、また同根の「救う」(ヤーシャー)という動詞が3節に2度(一つは「勝利を与える」と訳されている)、4節、28節、42節(「助ける」と訳されている)に用いられています。救いをテーマに、様々な表現を用いているわけです。

 主なる神は、イスラエルに様々な指導者を立て、正義と公正をもってあらゆる苦難からイスラエルを助け出すようにさせられました。初めはモーセ、次にヨシュア、その後は士師たち、そして、最後の士師としてのサムエルに、イスラエルの歴史に初めて登場して来た王たち。しかし、そこでイスラエルに真の救いをもたらさられたのは、主なる神御自身だったということです。

 ダビデの人生は苦難の連続でした。内に外に、様々な戦いや試練がありました。若い日には、サウル王に妬まれ、命をつけ狙われました(サムエル記上18章以下)。サウルの死後、ダビデが王となってから、今度は息子アブサロムが謀反を起こしました(サムエル記下15章以下)。その後、シェバの反逆もありました(同20章)。

 そのようにして、何度も死線を越えるような経験をしています。それを、「死の波がわたしを囲み、奈落の激流がわたしをおののかせ、陰府の縄がめぐり、死の網が仕掛けられている」(5,6節)と詠っています。確かに、私たちにとっても最大の敵は「死」です。誰も、この戦いを免れることは出来ません。そして、誰も死の力に打ち勝つことは出来ません。

 けれども、「苦難の中から主を呼び求め、わたしの神を呼び求めると、その声は神殿に響き、叫びは御耳に届く」(7節)と詠うダビデは、主が救い出してくださるので、どんな相手に対しても、私たちは常に勝利することが出来ると確信しているのです。

 それは、ダビデが助けを求めて主に叫ぶ度に、主が答えてくださったという経験に基づく確信です。ダビデはそれを、冒頭の言葉(18節)のとおり、「敵は力があり、わたしを憎む者は勝ち誇っているが、なお、主はわたしを救い出される」と詠いました。

 また、続けて、「彼らが攻め寄せる災いの日、主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる」(19~20節)と語っています。苦難の間、主がダビデを守ってくださったので、今や全イスラエルの王として広い国土を確保することが出来、近隣には敵対する者がいなくなっているという様子を、そこに見ることが出来ます。

 そして、その主を信頼して、私たちにも戦いに勝利するように励ましているのです。「わたしを喜び迎えてくださる」とは、私たちが神様に喜ばれるような良い者であるということではありません。ダビデ自身、その資格があると考えていなかったでしょう。むしろ、そのような資格がないにも拘わらず、神はいつでも、神を呼び求める声に耳を傾け、その都度、御手を伸べて守り助けて下さったことを、素直に喜び、感謝しているのです。

 「わたしは主の道を守り、わたしの神に背かない。わたしは主の裁きをすべて前に置き、主の掟を遠ざけない。わたしは主に対して無垢であろうとし、罪から身を守る」(22~24節)とは、ダビデが自分で獲得した境地ではありません。ダビデは主の前に、多くの罪を犯して来たからです。

 しかしながら、罪が示される度にそれを認め、神の御前に素直に悔い改めました。そして、神はダビデを憐れみ、その罪を赦されたのです。それゆえ、「御目の前にわたしは清い」と語ることが許されているわけです(25節)。

 私たちも神に招かれて、広い所に導き出されます。神は私たちを迎えるために、独り子を犠牲になさいました。独り子がこの世に来られたとき、宿屋には泊まる場所がありませんでした(ルカ2章7節)。公生涯に入ってからも、「人の子には枕するところもない」(同9章58節)という日々でした。私たちは主イエスのために場所を用意せず、むしろ、十字架につけて殺してしまったのです。

 しかるに神は、私たちが神の御国に入ることを、喜び迎えてくださいます。そこはとても広く、あらゆる者を迎え入れることが出来ますし、死の波も奈落の激流も、陰府の縄も死の網も届きません。

 さらに、主イエスをメシア、生ける神の子と信じる信仰を土台としてその岩の上に立てられるキリストの教会には、陰府の力も対抗出来ないと、主は仰いました(マタイ16章18節)。キリストが死の力を撃ち破って甦られたように、私たちも、復活の恵みに与ることが出来るのです。

 主の恵みを喜び、感謝のいけにえ、賛美のいけにえを主にささげましょう。

 主よ、あなたは私の灯火であり、私の闇を照らしてくださいます。あなたの他に神はいません。あなたは私の逃れの岩です。あなたは救いの盾を私に授け、私を強い者としてくださいます。主よ、国々の中で私はあなたに感謝をささげ、御名をほめ歌います。私たちの父である神に、栄光が代々限りなくありますように。 アーメン