「わたしはイスラエルの中で平和を望む忠実な者の一人です。あなたはイスラエルの母なる町を滅ぼそうとしておられます。何故、あなたは主の嗣業を呑み尽<そうとなさるのですか。」 サムエル記下20章19節

 アブサロムの謀反を鎮圧して、ようやく王国再統一が出来たと思ったのに、今度はベニヤミン族のシェバがダビデに反旗を翻します。それは、ダビデ王を巡るイスラエルとユダの諍いが発端でした(19章41~44節)。

 どちらが先にダビデを呼び戻そうと言ったのか、どちらが先に行動を起こしたのか、どちらが数が多いのかなど、いずれにしても大した問題ではなさそうですが、言葉を交わすうちに激論となり、ついには戦争にまで発展してしまったのです。こんな些細なことで、戦争に発展してしまうことを、心しておくべきだと思います。

 しかしながら、こうした背景には、ダビデ王家をめぐるユダ部族に対する嫉妬心のようなものがあるのでしょう。だから、シェバの反乱が功を奏していれば、彼がイスラエル(ユダ部族を含まない)の王となって、ベニヤミン族の伝統を引き継ぐことになったことのではないでしょうか。

 ベニヤミン族ビクリの子シェバの檄でイスラエル10部族はダビデから離れていきます。ダビデは、シェバはイスラエル王国にとって危険な存在だと考えて追跡させます。しかし、シェバにはそれほどの力はありませんでした。初めは、イスラエルの民が皆彼に従ったようでしたが(2節)、全イスラエルを通ってベト・マアカのアベルまで来たとき、彼に従っていたのは、ごくわずかな人数だったようです(14節)。

 新共同訳で、「選び抜かれた兵」と訳されているのは、「ベリーム」(ベリ人)という言葉です。新改訳はそのまま「ベリ人」と訳し、口語訳はこれを「ビクリびと」と訳していました。岩波訳も「ビクリ人」として、「原文はベリ(人)」と註をつけています。つまり、シェバと同族のビクリ家の人々だけが、彼に従ったということです。

 ベト・マアカは、北の国境線の町です。イスラエル全部族を通ってそこまで行ったというのは、ダビデの軍に追跡されていると知って、全部族を動員しつつ、落ち着くべき場所を探したけれども、彼に従う者は乏しく、彼を受け入れるところもなかったので、そこまで逃げたということなのでしょう。

 一方、シェバを追跡するため、ダビデはユダの人々を動員するよう、ヨアブの後任として司令官に任じたアマサに命じました(4節、19章14節)。アマサは、ヨアブとは従弟同士であり、ダビデの妹の子(甥)ですが、アブサロムの反乱のとき、彼はアブサロムについて、軍の司令官に任命されています(17章25節)。そんなアマサを司令官にしたのは、反乱に加担したユダ族に対する配慮であり、また、自分の命令を守らず、アブサロムを殺害したヨアブを降格させる意図があったと考えられます。

 しかし、アマサは、軍の司令官としては力量不足でした。そもそも、全イスラエル軍をまとめて、ダビデの軍としっかり立ち向かうことが出来なかったわけですが、今回も、言われた期日を守ることが出来ませんでした(5節)。そこで、アビシャイに代役を命じます(6節)。ここでも、実績のあるヨアブではなく、その兄弟アビシャイを立てるところに、やはりアブサロムを殺したヨアブに対するダビデの思いが現れています。

 彼らがギブオンにさしかかったとき、アマサが姿を現しました(8節)。しかし、ヨアブが彼を殺します(10節)。ヨアブが、アブサロムの反乱に加担していたアマサを信用せず、ダビデに危害が及ぶ危険な芽を取り除くということだったと思いますが、加えて、軍の司令官に戻りたいというヨアブの思いの表れでもありました。この後、ヨアブが実際上の司令官として、兵を率いています(13節以下)。

 さて、シェバが逃げ込んだ町アベルとは「牧場」という意味です。そして、ベト・マアカは「搾る家」という意味です。家畜の乳搾りをする小屋の周辺に牧場があるという光景を思い浮かべてみるとよいでしょう。そんな平和な場所が戦場になろうとしているのです。

 アベルの町をヨアブの軍が取り囲み、塁を築いて町の城壁を破壊しようとしたとき、一人の女性がヨアブに呼ばわり、冒頭の言葉(19節)のとおり、「何故あなたは主の嗣業を呑み尽くそうとされるのですか」と語ります(19節)。女性は、町の長老たちに代わり、知恵をもってヨアブに語りかけ、町を取り囲み、攻め込もうとしている理由を尋ねています。この言葉がなければ、シェバ一人のためにアベルの町を全滅させていたかも知れません。

 女性の言葉に対してヨアブは、「決してそのようなことはない。呑み尽くしたり、滅ぼしたりすることなど考えてもいない」(20節)といい。ダビデ王に向かって手をあげたシェバ一人を渡してくれれば、この町から引き揚げようと答えています(21節)。

 かつて、アンモンが軍を引いた時に、刃を交えないまま引き揚げ、エルサレムに戻ったヨアブでしたが(10章14節)、ここでも、問答無用、勢いに任せて攻め込むというのではなく、平和的な解決を選び取る知恵を発揮したのです。

 女性はシェバの首を渡すと約束し(21節)、町の人々のところに行きました。そのとき、シェバ一人のために町を滅亡させてもよいのか、彼を差し出せば町が守られるのだと、町の人々を説得したのでしょう。そして、逃げ込んだシェバの首をはねさせ、ヨアブに投げ落としました。

 ヨアブは角笛を吹いて全軍を帰還させます(22節)。こうして、たった一人の犠牲で、町の平和を守ることが出来ました。そしてそれは、ダビデのもとでイスラエルの平和が保たれることにもなりました。

 しかし、今日の箇所には、シェバが反逆したことについて、神の御心を問う言葉が出て参りません。預言者に尋ねることも、神に祈る言葉もありません。サムエル記の記者は、そのことに気づかせようとしているのではないでしょうか。アベルでの戦いは、どちらが良くてどちらが悪いというものではありません。勝てば官軍でもないでしょう。イスラエル民族同士が分かれ争っているところに問題があるのです。力と力の対決は、真の平和を生み出しません。相手を思い遣る心、相手の言葉に耳を傾ける心がなければ、一致することは出来ません。

 ところで、今日の箇所には、シェバが反逆したことについて、神の御心を問う言葉が出て参りません。預言者に尋ねることも、神に祈る言葉もありません。サムエル記の記者は、そのことに気づかせようとしているのではないでしょうか。この戦いは、どちらが良くてどちらが悪いというものでもありません。勝てば官軍でもないでしょう。イスラエル民族同士が分かれ争っているところに問題があります。

 主イエスが、「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない」と仰ったことがありますが(マタイ12章25節)、ダビデを巡る小さな諍いが国の分裂に発展しました。確かに、力と力の対決は、真の平和を生み出しはしません。相手を思い遣る心、相手の言葉に耳を傾ける心がなければ、一致することは出来ません。
 
 シェバが、「我々にはダビデと分け合うものはない。エッサイの子と共にする嗣業はない。イスラエルよ、自分の天幕に帰れ」と語っていますが(1節)、ソロモンの死後、ネバトの子ヤロブアムがソロモンの子レハブアムに対して同様に語り、イスラエルは南北に分裂してしまいます(列王記上12章16節)。これが、力ずくで自分の思いを成し遂げようとする人間の罪の姿なのです。

 すべての隔ての壁を取り壌して神と和解させ、二つのものを一つにするキリストの十字架が立てられました(エフェソ書2章14節以下。キりストー人の犠牲により、すべての罪が赦され、神との和解が完成しました(第ニコリント5章18,19節)。こうして、私たちが外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、キリストにおいて共に建てられ、霊の働きによって神の住まわれる神殿となるのです(エフェソ2章19,21節)。

 パウロは、私たちの神こそ、「平和の源」と言います(ローマ書15章33節、16章20節)。御子キリストの贖いの業を通して私たちと和解を成し遂げて下さった平和の源なる神を仰ぎ、日々キリストにある喜びと平安をもって歩ませていただきましょう。

 主よ、私たちはこの世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。けれども、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって神と和解し、神に近づくことが出来ます。聖霊を通して、私たちの心に神の愛が注がれています。ここから、常に希望をもって前進します。キリストの平和と喜ぴが、全世界に広げられますように。平和のないところに平和を造り出すために、知恵を与えてください。真の知恵に基づいて、行動することが出来ますように。 アーメン